出仕と蜀への使者
- 張温は字を惠恕といい、呉郡呉県の人である。父の張允は財を軽んじ士を重んじる人柄で州郡に名が知れ、孫権の東曹掾を務め没した。温は若くして節操を修め容貌も優れていたため、権はその評判を聞き公卿に「温は今誰に比べられるか」と問うた。大農の劉基が「全琮と同格であろう」と答えると、太常の顧雍は「基は温の人柄をまだよく知らない、当今並ぶ者はいない」と答え、権は「それならば張允は死んでいないも同然だ」と述べた。召見された際の温の弁舌と受け答えの見事さに、居並ぶ者は皆感嘆し、権も態度を改めて礼を厚くした。退出の際、張昭は温の手を取り「老いた身の望みを君に託す、心得ておいてほしい」と語った。温は議郎・選曹尚書を拝命し、のち太子太傅に転じ厚く信任された。
- 時に年三十二、輔義中郎将として蜀への使者となった。権は「卿を遠方へ遣わすべきではないのだが、諸葛孔明が我々の曹氏との通交の真意を知らずにいるかもしれないため、あえて卿に行ってもらう。もし山越がすべて平定されれば、蜀との連携を大きく進めたい。使者の義は命を受けて弁舌を勝手にせぬことにある」と語った。温は「私には腹心の謀もなく専対の力量もない、張老(春秋期の使者)のような名誉も子産(鄭の政治家)のような実績もないことを恐れるが、諸葛亮は見識深く必ず貴国の意図をお察しくださるはず」と答えた。温は蜀に至り、天子に拝謁して上表した(表文の大意:高宗・成王の故事に倣い、陛下の聡明な姿は往古の聖王に匹敵すると讃え、呉国は連年の軍事で疲弊しつつも道を同じくする蜀と誠を尽くして結びたいと願い、天子の温情への感謝を述べる内容であった)。蜀は温の才を大いに重んじた。帰国後まもなく豫章で軍の出兵に携わったが、事業は未完に終わった。
暨艶事件による失脚
- 権はかねて温が蜀の政治を称賛したことを内心快く思わず、また温の名声が高まりすぎて世論を惑わすことを恐れ、終には自分のために使えなくなるのではと危惧し、これを陥れる機会を窺っていた。折しも暨艶の事件が起こり、権はこれに乗じて温を追及した。暨艶は字を子休といい呉郡の人で、温が引き立てて選曹郎から尚書に至った人物であった。艶は激しい性質で清議を好み、当時の官吏に多くの不適任者がいるのを見て賢愚を峻別しようとし、多くの者を降格・処罰し、素行の悪い者は軍吏として営府に配した。これにより怨嗟の声が積もり讒言が横行し、艶と選曹郎の徐彪が私情によって愛憎を判断していると訴えられ、艶・彪は共に罪を得て自殺した。温はかねて艶・彪と親しく書簡を交わしていたため、これに連座して罪を問われた。権は温を有司に幽閉し詔を下した(詔書の大意:温を厚遇し登用してきたのに裏で異心を抱いていたとし、暨艶との結託、艶が進退させた人事の陰の後ろ盾となったこと、豫章での軍務の遅滞、殷禮の蜀派遣における私的な外交、蔣康・賈原への官職斡旋の約束などを列挙し、その奸心を糾弾する内容であった)。温は本郡へ送還され下級の吏に落とされた。
駱統の弁護と評価
- 将軍の駱統は温のために上表して弁護した(上表の大意:温は実際には二心なく、ただ年若くして重責を担い際立った才を発揮したため、権勢を妬む者や名声を争う者から嫉まれ讒言を受けたに過ぎないと述べ、漢の賈誼が絳侯・灌嬰の讒言により文帝から遠ざけられた故事を引き、名君でも讒言には惑わされうると諭した。また温と暨艶の交わりは君臣の義に比べればはるかに軽いものであり、殷禮の蜀派遣についても使者としての正当な交誼の範疇だと弁じ、賈原・蔣康との一件も温の日頃の厳正な態度からして私心によるものとは考えにくいと論じ、殿下の聡明な判断力をもって虚実を見極めてほしいと切願する内容であった)。しかし権はついにこれを容れなかった。
- 後六年、温は病没した。二人の弟の張祗・張白もまた才名があったが、温と共に処罰を受け不遇であった(『会稽典録』によれば、餘姚の虞俊は「張惠恕は才多く智少なく、華やかだが実を伴わず、怨みを集め家を覆す禍の兆しがある」と嘆いており、諸葛亮もこの見識に感服したという。裴松之注は『荘子』の「名は公器なり、多く取るべからず」の語を引き、温の失脚は名声を求め過ぎたことにあると論じ、才を隠し謙譲を貫くべきだったと評した。また温の姉妹三人は皆節操ある女性であったが、温の事件により既婚の姉妹も夫のもとから追い戻された。次妹は丁氏へ嫁ぐことが決まっていたが、婚礼を目前に毒を仰いで死んだといい、呉の人々はこれを称え図画にして讃頌したという)。