幼少期と学問
- 陸績は字を公紀といい、呉郡呉県の人である。父の陸康は漢末に廬江太守を務めた(謝承『後漢書』によれば、康は字を季寧といい、若くして孝悌を篤くし操行を修め、茂才に挙げられ三郡の太守を歴任し廬江太守に至った)。績は六歳の時、九江で袁術に会い、術が出した橘を三つ懐に隠し持ち帰ろうとして、辞去の際に落としてしまった。術が問うと、績は「母に持ち帰りたかったのです」と答え、術は大いに感心した(「懐橘遺親」の故事)。孫策が呉にあった頃、張昭・張紘・秦松ら上客が同席し天下がまだ定まらぬ状況を論じ武力による平定を唱えていたところ、末席にいた若い績が「昔、管仲は斉桓公を輔け諸侯を糾合し天下を正したが兵車を用いなかった。孔子も『遠人服せずんば文徳を修めてこれを来す』と言われている。今の論者は道徳をもって招く術を務めず武力ばかりを重んじるのは如何なものか」と大声で発言し、張昭らはこれに驚嘆した。
鬱林太守としての晩年
- 績は容貌が雄壮で博学多識、星暦・算数のいずれにも通じていた。虞翻や荊州の名士龐統とも親しく交わり、その年齢も績より上であった。孫権が政務を統べると奏曹掾に辟され、直言をもって疎まれ鬱林太守に出され偏将軍を加えられ兵二千人を授かった。績は跛の疾があり本来儒学を志していたため軍事は本意ではなかったが、著述は怠らず、『渾天図』を作り『易』を注し『太玄』を釈するなど、共に後世に伝わった。自ら死期を悟り自らの辞を残し(若くして『詩』『書』に親しみ長じて『礼』『易』を修めたが、命により南征し病を得て不幸に見舞われたことを嘆いた)、また「今後六十年の後には車軌も文字も統一されるだろうが、それを見られないのが残念だ」とも述べた。享年三十二で没した。長子の陸宏は会稽南部都尉、次子の陸睿は長水校尉に至った。績が鬱林で儲けた娘の陸鬱生は張温の弟の張白に嫁いだ。姚信の文集には彼女を称える上表があり、十三歳で張白に嫁いだ後、白が家禍に遭い遠く配流された際、鬱生は姉妹を庇い艱難の中で節を守り、婚礼で聞こえた縁談を頑として拒み、礼をもって最後まで面倒を見た貞節が称えられ、朝廷に「義姑」の号を賜るよう乞う内容であった。