三國志卷五十六 吳書十一 朱然
朱然、字は義封、朱治の姉の子で本姓は施氏(?–赤烏12年、享年68)。孫策の招きで朱治の嗣子となり孫権と共に学んだ。関羽討伐・江陵防衛・柤中出征などで武功を重ね、呉の名将として重んじられた。子の施績(もと朱績)も将として重用された。
出自と抜擢
- 朱然は字を義封といい、朱治の姉の子で、本姓は施氏であった。治にまだ子がなかった時、然は十三歳で、孫策に嗣子とすることを願い出た。策は丹楊郡に命じて羊と酒をもって然を招き、然が呉に到着すると策は礼を尽くして迎えた。
- 然はかつて権と共に学んで深い交わりを結んだ。権が政務を統べるようになると然を餘姚長とした、時に年十九。のち山陰令に遷り折衝校尉を加えられ五県を督した。権はその能力を高く評価し、丹楊を分けて臨川郡とし然を太守とした(裴松之注:この郡はまもなく廃されており、現在の臨川郡とは別である)。兵二千人を授けられた。山賊が大挙して起こると然はこれを平定し、旬月で鎮めた。曹操が濡須に出兵した際、然は大塢と三関の屯を守り偏将軍を拝命。建安二十四年(219年)、関羽討伐に従軍し、潘璋と共に臨沮で羽を捕らえ、昭武将軍に遷り西安郷侯に封じられた。
江陵防衛
- 虎威将軍の呂蒙が重病になった際、権が「もし卿が起き上がれなければ誰が後任にふさわしいか」と問うと、蒙は「朱然は胆力と守りに優れており任せられる」と答えた。蒙が没すると権は然に節を仮し江陵を鎮させた。黄武元年(222年)、劉備が挙兵し宜都を攻めると、然は五千人を率いて陸遜と力を合わせこれを拒み、備の前鋒を別に攻め破りその退路を断ち、備はついに敗走した。征北将軍を拝命し永安侯に封じられた。
- 魏が曹真・夏侯尚・張郃らを遣わし江陵を攻め、魏文帝は自ら宛に留まりその後詰めとし、諸軍を連ねて城を囲んだ。権は将軍孫盛に一万人を率いさせ州上に囲塁を築かせ然の外援としたが、張郃が兵を渡して盛を攻めると盛は支えきれず退却しようとし、郃は州上の囲みを固め、然は内外との連絡を断たれた。権は潘璋・楊粲らを派遣し囲みを解こうとしたが解けなかった。時に然の城中は腫れ病の兵が多く、戦える者は僅か五千人であった。曹真らは土山を築き地道を掘り、楼櫓を立てて城を囲み矢を雨のように降らせ、将士は皆色を失ったが、然は動じることなく士気を鼓舞し、隙をついて敵の二屯を撃破した。魏の包囲は凡そ六ヶ月に及んだが退かなかった。江陵令の姚泰は城の北門の守備を任されていたが、外の敵兵が盛んで城中の人が少なく食糧も尽きかけているのを見て、敵と内通し内応を謀ったが、事が発覚し然はこれを誅した。夏侯尚らはついに落とせず攻囲を解いて退いた。これにより然の名は敵国にまで轟き、当陽侯に改封された。
柤中への遠征と晩年
- 六年(227年)、権が自ら軍を率いて石陽を攻め、撤退の際に潘璋が殿軍を務めたが、夜の撤退で混乱し敵に追撃された際、然が踏みとどまって敵を防ぎ、前方の船を遠くまで先に行かせ自らはゆっくり最後に発した。黄龍元年(229年)、車騎将軍・右護軍・領兗州牧を拝命。まもなく兗州が蜀の分野にあるとして牧の職を解かれた。嘉禾三年(234年)、権は蜀と期を合わせて大挙し、自ら新城に向かい、然は全琮と共に左右の督として斧鉞を授かったが、将兵に疫病が流行り攻めぬまま撤退した。
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赤烏五年(242年)、柤中に出征した。魏将の蒲忠・胡質はそれぞれ数千人を率い、忠は険阻な地に要撃して然の退路を断とうと図り、質は忠の後詰めとなった。時に然の指揮下の兵は先に四方に分散しており急な召集は間に合わなかったが、然は帳下の手勢八百人を率いて突如迎撃した。忠は苦戦し質らも共に退いた。九年(246年)、再び柤中に出征。魏将の李興らが然の深入りを聞き、歩騎六千で退路を断とうとしたが、然は夜のうちに出撃してこれを迎え撃ち、軍を無事に戻した。これに先立ち、帰順していた馬茂が謀反を企て発覚し誅されたため、権は深く憤っていた。然は出発に際し上疏し、「馬茂の裏切りの汚名を、この度の戦功をもって雪ぎたい」旨を述べたが、権は当初その表を伏せて公表しなかった。然が戦功を上げて報告すると、群臣が祝賀を上申し、権はようやく然の表を示し、然の先見の明を称えた。使者を遣わし然を左大司馬・右軍師に拝命した。
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然は身長七尺に満たなかったが、気迫は際立っていた。私生活は清廉で、軍装のみを飾り、他は質素であった。常に戦場にあるかのように終日謹厳で、危急に際しても動じることが人並外れていた。世が平穏な時でも朝夕厳しく太鼓を鳴らし、営中の兵は常に出陣の装いを整えさせた。これにより敵を欺き備えを察知させなかったため、出陣すれば必ず功があった。諸葛瑾の子融、歩騭の子協らがそれぞれ父の任を継いでも、権は特に然に全軍の大督を務めさせ、功臣・名将で存命の者のうち然と並ぶ者はなかった。病に臥すこと二年、次第に重くなると権は食事を減らし夜も眠れず、見舞いの使者や医薬が道に絶えなかった。然は病状を上表するたびに権が召見して直接問いただし、酒食を賜り布帛を贈った。創業の功臣で病んだ者のうち、権が最も心を寄せたのは呂蒙・淩統であり、然はその次であった。享年六十八、赤烏十二年(249年)に没し、権は喪服を着てその死を悼み感慟した。子の朱績が跡を継いだ。
施績(朱然の子)――生涯
- 績は字を公緒といい、父の任により郎となり、のち建忠都尉を拝命した。叔父の朱才が没するとその兵を領し、太常の潘濬に従い五渓を討ち、胆力で称された。偏将軍・営下督に遷り盗賊事を領し、法を曲げなかった。魯王孫霸が績と交わりを結ぼうとして官舎を訪れた際、績は地に降りて立ったまま、その意には応じなかった。然が没すると、績はその業を継ぎ平魏将軍・楽郷督を拝命した。
- 翌年、魏の征南将軍王昶が大軍で江陵城を攻めたが落とせず退いた。績は奮威将軍の諸葛融に書を送り、疲弊した昶を追撃すべしと説いたが、融は同意しながらも進軍せず、績は先に戦って勝利したが融が進まなかったため、後になって績は不利を被った。権は績を深く評価し融を厳しく叱責したが、融の兄で大将軍の諸葛恪の権勢が重いため、融は処罰を免れた。以前から績は諸葛恪・融と不和であったが、この一件で溝はさらに深まった。建興元年(252年)、鎮東将軍に遷った。
- 二年(253年)春、諸葛恪が新城に向かう際、績に合力を求めながらも半分の州のみを担わせ、融に主な任を兼ねさせた。冬、恪・融が誅殺されると、績は楽郷に戻り仮節となった。太平二年(257年)、驃騎将軍を拝命。孫綝が政を専断すると、大臣たちが疑心を抱き、績は呉国が乱れて魏が乗じてくることを恐れ、密かに蜀に書を送って共に対処するよう促した。蜀は右将軍の閻宇に兵五千を与え白帝の守りを増強し、績の次の指示を待たせた。永安初(258年)、上大将軍・都護督に遷り、巴丘から西陵までを統括した。元興元年(264年)、左大司馬を拝命。かつて然が朱治の喪に服し終えたのち本姓(施)に戻ることを願い出たが権は許さなかった。績は五鳳年間(254-256年)に上表して施氏に戻った。建衡二年(270年)に没した。