三國志卷五十六 吳書十一 朱治

朱治、字は君理、丹楊郡故鄣県の人(?–黄武3年、享年69)。孫堅の征伐に従い各地を転戦し、孫策を早くから助けて江東帰還を勧め、太妃と孫権兄弟を保護した古参の将。呉郡太守として東南の平定を支え、老齢に及んでも故鄣に屯して山越を鎮撫した。孫呉創業を支えた重臣である。

年表(7件)
  • 中平5年司馬を拝命し長沙・零陵・桂陽三郡の賊を討った
  • 192年孫堅が薨じると孫策を扶翼し袁術のもとに身を寄せた
  • 200年孫策が薨じると張昭らと共に孫権を推戴した
  • 建安7年孫権により呉郡太守に上表され扶義将軍代理となった
  • 黄武元年毗陵侯に封じられた
  • 黄武2年安国将軍を拝命し故鄣に転封された
  • 黄武3年没した。郡にあること31年、享年69であった

出自と初期の功績

  • 朱治は字を君理といい、丹楊郡故鄣県の人である。初め県吏となり、のち孝廉に察挙され、州の従事に辟召されて孫堅の征伐に随行した。
  • 中平五年(188年)、司馬を拝命。長沙・零陵・桂陽三郡の賊、周朝・蘇馬らを討って功があり、孫堅は治を行都尉に推挙した。
  • 董卓を陽人で破った際に従軍し洛陽に入る。行督軍校尉に推挙され、歩騎を特に率いて東方で徐州牧の陶謙を助け黄巾を討った。
  • 孫堅が薨じると(192年)、治は孫策を扶翼し袁術のもとに身を寄せた。のち袁術の政治に徳がないことを知り、策に江東へ帰って平定するよう勧めた。
  • 当時、太傅の馬日磾が寿春におり、治を掾に辟し、吳郡都尉に遷らせた。
  • このころ呉景はすでに丹楊にあり、策は袁術のために廬江を攻めていた。劉繇は袁術・孫氏に併呑されることを恐れ、両者の仲は険悪になった。策の家族は皆その州にいたため、治は人をやって曲阿から太妃(孫堅の母)と権の兄弟を迎えさせ、手厚く供養・保護し恩義を尽くした。
  • 治が銭唐から呉へ進もうとした際、呉郡太守の許貢が由拳でこれを拒んだが、治は戦ってこれを大破した。貢は南の山賊厳白虎のもとへ逃れ、治はついに郡に入り太守の事を代行した。
  • 策が劉繇を敗走させ東の会稽を平定した後、権は十五歳で治によって孝廉に挙げられた。のち策が薨じると(200年)、治は張昭らと共に権を推戴した。

太守として

  • 建安七年(202年)、権は治を吳郡太守に上表し、扶義将軍を代行させ、婁・由拳・無錫・毗陵を奉邑として割き、長吏を置いた。夷越を征討し東南の平定を助け、黄巾の残党である陳敗・万秉らを捕らえた。黄武元年(222年)、毗陵侯に封じられ、郡を治めることは以前どおりであった。
  • 二年(223年)、安国将軍を拝命し金印紫綬を授かり、故鄣に転封された。権が上将軍となり呉王となってからも、治が謁見するたびに権は常に自ら出迎え、拝礼を交わし宴を賜るなど、恩礼はとりわけ厚く、随行の下吏に至るまで贈物を私的に受けることが許されるほどであった。

晩年

  • かつて権の弟の孫翊は気性が激しく喜怒を露わにしたが、治はたびたび責め道義を諭した。権の従兄で豫章太守の孫賁の娘は曹操の子の妻となっており、曹操が荊州を破って南方に威を振るうと、賁は畏れて子を人質に送ろうとした。治はこれを聞いて赴き、賁のために利害を説いた(『江表伝』所載の説得。孫堅・孫策の功業を挙げ、骨肉を裏切って一女子のために身を誤ることの愚を諭した)。賁はこれにより思いとどまった。
  • 権は治の憂勤ぶりをたびたび称え、治は倹約を旨とし富貴にあっても車馬衣服は職務に必要な分のみであった。権は治を特に優遇し、督軍御史に城内の文書を管掌させ、治自身は四県の租税のみを取り扱わせた。しかし公族の子弟や呉の四大姓の多くが治の郡に出仕を求め、郡吏は常に千人を数えたため、治は数年ごとに一度、彼らを王府に赴かせた。派遣した者は数百人にのぼり、毎年の貢献に権は厚く報いた。
  • 丹楊の奥地には反乱の徴があり、また治も老齢となり郷里を懐かしむようになったため、自ら故鄣に屯営することを願い出て山越を鎮撫した。郷里の父老たちは皆その門を訪れ、治は皆を招き入れて共に宴を催し、郷党はこれを誉れとした。故鄣に一年余りいてのち呉に戻った。黄武三年(224年)に没した。郡にあること三十一年、享年六十九であった。

朱治子 才ら(附伝)

  • 子の朱才は元来校尉として兵を領しており、父の爵を継いで偏将軍に遷った。『呉書』によれば、才は字を君業といい、機敏で騎射に優れ、権に特に可愛がられて常に側近く仕えた。若くして父の任により武衛校尉となり、征伐に従い戦功を重ねた。郷里の評判では若くして栄達したため郷党への配慮に欠けると言われ、才はこれを慨嘆して以後は礼を尽くし賓客を大切にし、財を軽んじ義を重んじ、兵法も学んで名声が遠近に広まったが、病を得て没した。
  • 才の弟の朱紀は権が孫策の娘を娶らせ、同じく校尉として兵を領した。紀の弟の朱緯・朱万歳は共に早世した。才の子の朱琬は爵を継いで将軍となり、鎮西将軍に至った。