三國志卷五十四 吳書九 周瑜

周瑜、字は公瑾、廬江舒の人(享年36)。孫策と同年で親しく交わり、建威中郎将として孫策に仕えた。曹操が荊州を平定し南下すると迎撃を主張し、赤壁の戦いで火攻めにより曹操軍を大破した。孫策没後は孫権を支え、質子を送らぬよう説き、南郡攻略でも功を挙げたが、益州攻略を計画中に巴丘で病没した。呉の建国期を代表する武将・戦略家である。

年表(8件)
  • 建安3年袁術のもとを去り東の呉へ戻る途を開いた
  • 建安5年孫策が薨じ孫権が事を統べると兵を率いて弔問に赴き呉に留まり中護軍となった
  • 建安7年曹操の質子要求に反対し送るべきでないと説いた
  • 建安11年柴桑に侵入した黄祖の将鄧龍を生け捕った
  • 建安13年江夏討伐に前部大督として従軍した
  • 建安13年曹操への迎撃を主張し精兵を率いて出兵を請うた
  • 建安13年赤壁で曹操軍を火攻めで大破した
  • 赤烏2年諸葛瑾・步騭の上疏により子の周胤の赦免が許された

出自と孫策への合流

  • 周瑜、字は公瑾、廬江舒の人。従祖父の周景、その子の周忠はともに漢の太尉であった。父の周異は洛陽令。周瑜は背丈があり容貌に優れた。
  • 孫堅が義兵を挙げ董卓を討った折、一家は舒に移った。孫堅の子孫策と周瑜は同年で親しく、周瑜は南の大宅を策に譲り母に礼を尽くし物を融通し合った。
  • 周瑜の従父周尚が丹楊太守であった頃、孫策が東渡し歴陽に至ると周瑜は兵を率いて迎えた。策は「卿を得た、成る」と喜び、横江・当利を攻略、秣陵で笮融・薛礼を破り、湖孰・江乗を経て曲阿に進み劉繇を敗走させた。この時策の兵はすでに数万となっていた。策は「呉・会稽を取り山越を平らげるにはこの兵で足りる、卿は丹楊に戻れ」と命じ、周瑜は丹楊に戻った。
  • のち袁術が従弟の袁胤を尚の後任太守として送ると、周瑜は尚とともに寿春に戻った。袁術は周瑜を将にしようとしたが、周瑜は袁術に将来性がないと見て居巣長への転任を願い、そこから東の呉へ戻る途を開いた。建安3年のことである。

孫策の腹心として

  • 孫策は自ら周瑜を迎え、建威中郎将に任じ兵2000・騎50を与えた(江表伝によれば鼓吹まで与え、館舎を整え、他に並ぶ者のない厚遇であったという)。策は「周公瑾は英俊の才、私と幼い頃からの誼と骨肉の分がある」と令を発した。当時周瑜24歳、呉中の人々は「周郎」と呼んだ。
  • 廬江での信望を背景に牛渚に出て備え、のち春谷長。策が荊州を取ろうとした際は中護軍・江夏太守代理として皖攻めに従い攻略、この時得た橋公の二女のうち大橋を策が、小橋を周瑜が娶った(江表伝:策は戯れに「橋公の二女は流離の身だが我々を婿に得たのだから満足だろう」と語ったという)。さらに尋陽で劉勲を破り江夏を討ち豫章・廬陵を平定、巴丘に鎮した(裴松之注:当時孫策は豫章・廬陵を得たばかりで江夏平定はまだ先であり、この巴丘は後の周瑜終焉の地とは別の場所とする)。

孫権を支え質子を退ける

  • 建安5年、孫策が薨じ孫権が事を統べると、周瑜は兵を率いて弔問に赴きそのまま呉に留まり、中護軍として長史張昭とともに政務を掌った。
  • 建安7年、曹操が孫権に人質の子弟を出すよう求めた際、群臣が決めかねる中、周瑜は「楚が荊山の側の小国から興り九百余年続いた例」を引き、孫権の兵力・国力を挙げて「人質を送れば曹氏に従属し操られることになる」と論じ送るべきでないと説いた。太夫人(孫権の母)は「公瑾の議は正しい、彼を兄として仕えなさい」と言い、質子は送られなかった(江表伝ほか)。
  • 建安11年、麻・保の二屯を討ち渠帥を斬り1万余人を虜にした。江夏太守黄祖の将鄧龍が柴桑に侵入すると追撃し生け捕りにした。建安13年春、江夏討伐に前部大督として従った。

赤壁の戦いへの決断

  • 同年9月、曹操が荊州に入り劉琮が降ると、曹操は水軍と歩兵数十万を得た。孫権が群臣に対策を問うと、多くは「長江の険は既に曹操と共有され、勢力差も大きい、迎えるべき」と論じたが、周瑜は「操は名目上漢の丞相だが実は漢の賊である」と述べ、以下の理由で迎撃を主張した:北方はまだ安定せず馬超・韓遂が背後を脅かしていること、水戦は中国軍の得意とするところでないこと、厳冬で馬の飼料に乏しいこと、遠征により疾病が生じやすいこと。精兵3万を得て夏口に進めば必ず操を破ると請うた。
  • 孫権は「老賊は久しく漢を廃し自立を望んでいた、そなたの言葉は私の心と合う、天が汝を私に授けたのだ」と応じた(江表伝によれば権は刀で机を斬り「迎えると言う者はこれと同じ目に遭わせる」と宣言したという)。会議後、周瑜は改めて曹操軍の実数は15、6万程度で疲弊し降兵も士気低く恐れるに足りないと説き、精兵5万を求めた。権は「5万はすぐには揃わないが3万は既に用意した、卿と魯肅・程普が先発せよ」と命じた(裴松之注:曹操への抗戦を最初に建策したのは実は魯肅であり、周瑜が鄱陽から呼び戻された経緯があるが、本伝はこれを略し周瑜の功のみを記していると指摘する)。

赤壁の戦い

  • 劉備は曹操に敗れ南へ渡ろうとしていたが、魯肅と当陽で会し諸葛亮を孫権のもとへ遣わした。孫権は周瑜・程普らを送り劉備と共に曹操を迎え撃ち、赤壁で相まみえた。
  • 曹操軍にはすでに疫病が広がっており、初戦で敗れて江北に退いた。周瑜配下の黄蓋が「敵は多く我らは少ないが、その船は首尾を連ねている、火攻めで走らせられる」と献策。蒙衝闘艦数十艘に薪草と膏油を積み、偽りの降伏を告げる書を曹操に送った上で、東南の急風に乗じて一斉に火を放った。曹操軍は大混乱に陥り、人馬の焼死・溺死が多数出て敗走、南郡へ退いた。周瑜らはこれを追撃し、曹操は曹仁らに江陵城を守らせ自らは北へ帰った。

南郡攻略と最期

  • 周瑜と程普は南郡に進み曹仁と対峙。劉備の献策により張益徳(張飛)1000人を借り夏水から曹仁の背後を断つ策を用いた。周瑜は甘寧を夷陵に先発させたが曹仁がこれを囲み、呂蒙の計に従い凌統に留守を任せ自ら救援に赴いた。周瑜は自ら陣頭で流れ矢を右脇に受け重傷を負ったが、曹仁が油断したと聞くと自ら軍営を巡視し士気を鼓舞し、曹仁を退かせた。
  • 孫権は周瑜を偏将軍・南郡太守代理に任じ、下雋・漢昌・劉陽・州陵を奉邑とし江陵に駐屯させた。劉備が左将軍・荊州牧として公安に治所を置き権に謁見した際、周瑜は上疏し「劉備は梟雄で関羽・張飛の勇将を擁し久しく人に使われる器ではない、呉に移して宮殿と美女で懐柔し関羽・張飛は分離して各地に配すべき」と献策したが、権は曹操に備えるため英雄を広く集める必要があり、また劉備を制しきれないことを恐れて容れなかった。
  • 周瑜はさらに劉璋の益州を取り張魯を併せ、馬超と結び荊州の襄陽で曹操を制す計画を権に献じ許されたが、江陵に戻り準備中に巴丘で病没した(裴松之注:この巴丘は先に鎮した地とは別で、現在の巴陵に当たるとする)。享年36。孫権は喪服を着て哀悼し、喪を蕪湖まで自ら迎え、費用は全て官が支給した。のち令を発し「亡き周瑜・程普の人客には手を出してはならない」とした。

人柄と評価

  • 周瑜は孫策に友として遇され、太妃も孫権に兄として仕えさせた。性度は寛大で人望を得たが、程普とだけは折り合いが悪かった(江表伝によれば程普は年長を理由に周瑜を侮ることがあったが、周瑜は謙って争わず、程普は後に感服し「公瑾と交わるは美酒を飲むが如し、覚えず自ら酔う」と語ったという)。
  • 曹操は周瑜の若さと才を見込み、九江の蒋幹を密かに送って説得を試みたが、周瑜は営内を案内するだけで返答をはぐらかし、蒋幹はついに周瑜の心を動かせなかった。中原の士もこれを称えた。
  • 劉備が京から帰る際、孫権は張昭・秦松・魯肅らと見送り、周瑜を評して「文武の籌略、万人の英であるが、その器量の大きさゆえに久しく人臣に留まる人物ではないだろう」と嘆じた。曹操は赤壁の敗北について「孤は逃げることを恥じない」「病のため自ら船を焼いて退いたのに、周瑜に虚名を与える結果になった」と孫権への書に記した。周瑜が没すると孫権は「公瑾には王佐の資があったのに、なぜ短命であったのか」と涙した。のち帝を称した際にも「私は周公瑾がいなければ帝となれなかった」と語った。
  • 周瑜は音楽に精通し、酒の後でも曲の誤りに気づくため「曲に誤りあれば周郎顧みる」という謡が生まれた。

周瑜の子女

  • 周瑜には二男一女があり、娘は太子登に嫁いだ。長男周循は公主を娶り騎都尉に任じられ父の風格があったが早世。次男周胤は興業都尉となり、宗女を妻とし1000の兵を授けられ公安に駐屯、黄龍元年に都郷侯に封じられたが罪により廬陵郡へ流された。
  • 赤烏2年、諸葛瑾・步騭が連名で周胤の赦免を上疏し、周瑜の功績(曹操を烏林で破り曹仁を郢都から走らせた功は周の方叔や漢の韓信・黥布にも劣らないとする)を挙げ、漢高祖の封爵の誓い(黄河・泰山の喩え)を引いて赦しを願った。孫権は答書で周胤の酗酒放縦を戒めつつも周瑜への恩を思い許すか検討する意向を示し、朱然・全琮も上表したためついに許した。しかし周胤は許される前に病死した。
  • 周瑜の甥(兄の子)周峻も偏将軍として吏士1000人を領していたが没し、全琮がその子周護を将にすることを上表したが、孫権は周護の危険な性行を理由にこれを止め、それでも周瑜への思いは変わらないとした。