三國志卷五十三 吳書八 薛綜
薛綜は字を敬文といい、沛郡竹邑の人(?–赤烏六年)。経学に通じ文にも巧みで秀才に挙げられた。族人を頼って交州に避難し、士燮が孫権に帰順すると仕えて合浦・交阯太守などを歴任、九真征討に従軍した。機知に富んだ問答でも知られ、呂岱の後任人選や孫権の遼東親征への諫言など、上疏で国政にたびたび意見した。のち太子少傅も務めた。
家系と学問
- 薛綜、字は敬文、沛郡竹邑の人。呉録によれば先祖は斉の孟嘗君に薛の地を封ぜられ、秦の六国滅亡後に子孫が分散し、漢の高祖が孟嘗君の孫の陵・国の二人を得て封を復そうとしたが、両者は互いに譲り合い受けず、竹邑に去って薛氏を名乗ったという。
- 薛綜は経学に明るく文にも巧みで秀才に挙げられた。族人を頼って交州に避難し劉熙に学んだ。士燮が孫権に帰順すると、五官中郎将に召され合浦・交阯太守を歴任。
交州平定と機知
- 交州が開拓されると刺史呂岱の討伐に従軍し、南征して九真に至った。都に戻り遏者僕射代理。
- 西方の使者張奉が孫権の前で尚書闞澤の姓名を字戯で嘲ったが闞澤は答えられず、薛綜が代わって「蜀」の字を分解し(「犬あれば獨、犬なければ蜀」)応じた。奉が「呉の字も列ねてみせよ」と挑むと、薛綜は「口無ければ天、口あれば呉」と応じ、座は喜び笑い、奉は答えられなかった(江表傳には費禕と諸葛恪の同様の問答が別に伝わる)。
- 呂岱が交州から召還される際、薛綜は後任の人選を憂え長文の上疏を奉った。要旨は次の通り:交州はもと舜が南巡し蒼梧で崩じ、秦が桂林・南海・象郡を置いた地であり、趙佗・漢武帝以来の統治の変遷、錫光・任延による教化(耕作・冠履・媒官・学校の導入)、風俗の未開さ(兄弟婚等の悪習)を述べ、遠地ゆえに長吏の人選が疎かにされてきた弊害(南海太守黄蓋の粗暴、九真太守儋萌と功曹番歆の争い、刺史朱符・張津の失政、長沙呉巨と零陵頼恭の不和など)を列挙し、呂岱による士氏の乱平定の功を評価した上で、後任には精密な人材を選ぶべきと訴えた。
晩年
- 黄龍3年、建昌侯孫慮が鎮軍大将軍となり半州に屯した際、薛綜はその長史として外事と文書を掌り、慮の死後は賊曹尚書、尚書僕射に遷った。
- 公孫淵が魏に降って再び叛いた際、孫権が激怒して自ら親征しようとしたのを薛綜は上疏して諫めた。要旨は、帝王は水路の危険に身を晒すべきでなく(孔子の桴海の語、季由の逸話、漢元帝の楼船の故事を引く)、遼東は寒冷不毛の地で守るに値せず、海路の風波・瘴気の危険が大きく、中国が平定されれば遼東は自ずと滅びるとして、拱手して待つべきと説いた。孫権はこれを容れず自ら出征することはやめた。
- 正月乙未、権は薛綜に定型でない祝辞を作るよう命じ、薛綜は即座に見事な文を作った。赤烏3年、選曹尚書に転じ、5年に太子少傅となり選挙の職も兼ねた(呉書によれば紫綬の囊を賜ったが、太子の師傅としてふさわしくないと辞退を願い出た逸話がある)。
- 赤烏6年春に没した。著した詩賦難論数万言は《私載》と名づけられ、他に《五宗図述》《二京解》を定め、いずれも世に伝わった。
薛綜の子孫――子珝
- 子の薛珝は威南将軍に至り、交阯征討からの帰途に病死した。漢晋春秋によれば、孫休の時代に珝は五官中郎将として蜀に馬を求める使者に赴いた。帰還後、蜀の政治の得失を問われ、「君主は暗愚で過ちに気づかず、臣下は身を保つことに汲々として直言する者がなく、朝廷には正論が聞かれず民は皆菜色である」と燕雀の喩えを用いて痛烈に評した。
薛綜の子孫――珝弟瑩
- 珝の弟薛瑩、字は道言。秘府中書郎から孫休即位後に散騎中常侍となり、病で数年官を退いた。孫皓の初め、左執法から選曹尚書に遷り、太子が立つと少傅も兼ねた。
- 建衡3年、孫皓は父薛綜の遺文を追想し、薛瑩に継作を命じた。薛瑩は先祖の漢代からの仕官、父綜が乱を避けて江東に来た経緯、大皇帝(孫権)以来の恩寵、文皇(孫和)の東宮での少傅の任、自身が受けた寵遇と父祖への深い感謝、兄珝の千里の任と自らの東宮での責任を詩に詠み献上した。
- 同年、何定が聖谿の開削を建議し孫皓が薛瑩に1万人を率いて工事に当たらせたが、巨岩が多く難工事で罷免。武昌左部督に転じたが、のち何定が誅殺されると聖谿の一件を追及され下獄、廣州に流された。
- 右国史華覈は上疏し、薛瑩の史才を惜しんだ。要旨:五帝三王以来、史官は功美を記録し後世に伝える。漢の司馬遷・班固の例を引きつつ、呉では大皇帝末年に太史令丁孚・郎中項峻が《呉書》を始めて撰したが史才が足りず、少帝の時に韋曜・周昭・薛瑩・梁廣と華覈自身の5人が改めて編纂に当たったが、周昭・梁廣は先に没し、韋曜は罪を得て殺され、薛瑩も将となり過失で流された。華覈は薛瑩の学識と文才が同僚随一であると訴え、召還を願った。
- 孫皓は薛瑩を広州から召還し左国史とした。その後、同郡の選曹尚書繆禕が讒言に遭い衡陽太守に左遷され、さらに罪を問われた際に薛瑩の家に立ち寄ったことで再び讒言され、繆禕は下獄・桂陽に流され薛瑩も広州に還されたが、途中で再び召還され復職した。当時は法政が乱れがちで、薛瑩は寛刑・徭役簡素化・民力回復を上便宜し、一部は実施された。のち光禄勲に遷る。
- 天紀4年、晋軍の征討を受け孫皓が司馬伷・王渾・王濬に降伏の書を送った際、その文は薛瑩の作であった。洛陽に至ると特に厚遇され散騎常侍となり、応対に条理があった。晋紀によれば、武帝が孫皓滅亡の理由を問うと、薛瑩は「孫皓は小人を近づけ刑罰を濫用し大臣・大将を信頼しなかったため、人々が保身に走り危亡を招いた」と答えたという。
- 太康3年に没した。著書8篇、《新議》と名づけられた。王隠《晋書》によれば子の薛兼、字は令長、清廉で名望があり、東晋で二宮丞相長史、元帝即位後は丹楊尹・尚書、太子少傅を歴任した。薛綜から薛兼まで三代にわたり東宮の傅を務めた。
史論
- 評して言う。張紘は文章と識見に優れた世の逸材であり、孫策の遇し方は張昭に次ぐものであったのも当然である。嚴畯・程秉・闞澤は当代を代表する儒林であった。嚴畯が栄達を辞して旧誼を全うしたことは徳ある者の振る舞いといえる。薛綜は学識と処世に優れ呉の良臣であった。薛瑩もその父祖の遺風を継いだが、暴虐な朝廷にあってしばしば顕職に登り、君子として危うい立場にあったといえる。