闞澤(德潤)
- 闞澤、字は德潤、會稽山陰の人。農家の生まれで貧しく、人の書写を請け負って紙筆を得、写し終えるとそれを誦読して学んだ。師に就いて群籍を究め、暦数にも通じ名を挙げた。孝廉に察挙され銭唐長、郴令を歴任。
- 孫権に驃騎将軍の西曹掾として辟召され、権の称号後は尚書、嘉禾中に中書令・待中を兼ねる。赤烏5年、太子太傅を拝し中書令を兼ねたまま。経伝の煩雑さを整理し、諸家の説を斟酌して《禮》文や注説を刊約して二宮に授け、儀礼を制定。また《乾象暦注》を著し暦日を正した。
- 朝廷の大議で経典の疑義があれば必ず諮問された。儒学に勤めた功で都郷侯に封じられた。人柄は謙恭篤慎で、下級の吏にも礼を尽くした。
- 呂壱の姦罪が明るみに出た際、有司は大辟(死刑)を奏し、あるいは焚裂の極刑を主張したが、闞澤は「盛明の世にこの刑は不要」と諫め、権はこれに従った。厳罰化を求める議論にも常に礼律に依るべきと説いた。
- 呉録によれば、虞翻は闞澤を「蜀の揚雄」「今の董仲舒」と称えた。孫権が「曹丕は若くして即位したが自分は及ばないのでは」と問うた際、闞澤は「丕」の字を分解し「十に及ばず丕(不十)」と答え、文帝は7年で崩じ予言は的中した(裴松之注:権は文帝より5歳年長だが、その差は僅かとする)。
- 赤烏6年冬、没した。権は深く悼み、数日食が進まなかった。
唐固(子正、闞澤の附伝)
- 闞澤と同郷の先輩、丹楊の唐固も修身積学の儒者と称され、《国語》《公羊伝》《穀梁伝》の注を著し、常時数十人に講義した。孫権が呉王を称した際に儀郎を拝し、陸遜・張温・駱統らも彼に礼を執った。黄武4年、尚書僕射となり没した(呉録によれば字は子正、享年70余)。