三國志卷五十三 吳書八 張紘

出自と若き日

  • 張紘、字は子綱、廣陵の人。京都に遊学し、太學で博士韓宗に師事して京氏易・欧陽尚書を修め、また外黄では濮陽闓に《韓詩》《禮記》《左氏春秋》を学んだ。
  • 本郡に戻り茂才に挙げられ、公府からも辟召されたが(大将軍何進・太尉硃俊・司空荀爽の三府からの辟召を含む)、いずれも病と称して応じなかった。
  • 江東に難を避け、孫策が事業を興すとこれに身を委ねた。正議校尉に任じられる。

呂布の誘いを退ける

  • 呉書によれば、張紘は張昭とともに参謀を務め、常に一人が留守を守り一人が征討に従うようにしていたという。呂布が徐州を襲い取って牧を称した際、呂布は張紘を茂才に推挙し、書を送って招こうとした。
  • 張紘は呂布を心の底で憎み、屈することを恥として応じなかった。孫策も張紘を重んじ手放したくなかった。張紘は「海に明珠を産すれば、その地こそ宝であり、楚に才があっても晋がこれを用いた。優れた君子は行く先々で珍重されるもの、なぜ出身州にこだわる必要があろうか」と答えた。
  • 丹揚討伐に従軍した際、孫策が自ら陣頭に立とうとしたので、張紘は「主将とは謀の出所であり三軍の命の懸かる者、軽々しく身を晒すべきではない」と諫めた。

孫権への出仕と諫言

  • 建安4年、孫策は張紘を使者として許都の朝廷に上表させたが、そのまま侍御史として留め置かれた。少府孔融らと親交を結んだ。
  • 曹操は司空として張紘を厚遇し、掾に辟し高第に挙げて侍御吏とし、のち九江太守に任じようとしたが、張紘は旧恩を思い病と称して固辞し、孫策のもとへ戻る機会をうかがった。
  • 曹操は孫策の死を聞き、喪に乗じて呉を討とうとしたが、張紘は人の喪に乗じることの不義を諫め、もし討ちきれなければ仇を作り好誼を失うだけだと説いた。曹操はこれに従い、孫権を討虜将軍・会稽太守に表薦した。
  • 曹操は張紘を通じて孫権を懐柔しようとし、張紘を会稽東部都尉として派遣した。呉書によれば、孫権は年若く母太夫人が国難を憂えていた折、張紘は箋を奉り補佐に努め、破虜将軍(孫堅)の董卓破りと討逆将軍(孫策)の江東平定の功を頌える文を作り、孫権に大いに感涙された。
  • 広陵太守趙昱は張紘を孝廉に挙げたが、笮融に殺された。張紘はこれを深く傷み、東部在任中に主簿を琅邪に遣わして祭祀を行わせ、趙氏の血縁の子を後継として立てさせた(琅邪相臧宣を通じ、趙宗の5歳の男子に昱の祀を継がせた)。孫権はこれを嘉した。
  • 孔融は書を送り、留守を守る張紘の功を「深固折衝、亦た大勲なり」と称えた。
  • のち権の長史となり合肥攻めに従軍。呉書によれば、攻城が長引く中で張紘は「囲みの一面を開けて疑心を生じさせ、敵の抵抗が固い今は救援が来るまで少し緩め変化を見るべき」と献策したが、議論はまとまらなかった。援軍が現れた際、孫権が自ら軽騎を率いて突撃しようとしたのを、張紘は「兵とは凶器、戦とは危事」と諫め、孫権はこれを容れて止めた。翌年の再出兵にも、張紘は武功に頼りすぎず民を休ませ賢才を用いるべきと諫め、出兵は取りやめられた。

秣陵遷都の献策と最期

  • 張紘は秣陵(金陵)への遷都を進言し、孫権はこれに従った。江表伝によれば、張紘は秣陵が楚武王の置いた地で王者の都邑の気があると説いた。劉備も東行の途上で秣陵の地形を見て遷都を勧めたと伝わる(裴松之は諸書の記述に食い違いがあると注記する)。
  • 張紘は呉に家族を迎えに戻る途中、病没した。臨終に際し子の張靖に遺した箋文で、国を治める者は善に従うことの難しさと、忠臣の直言を容れることの大切さを説いた。享年60。孫権はこの書を読み涙を流した。

張紘の子孫と交友

  • 張紘は詩賦銘誄十余篇を著した。呉書によれば柟榴枕の賦を作り、陳琳がこれを北で見て賞賛し、後に張紘も陳琳の作品を称える書を送った(琳の返書に「小巫が大巫を見るがごとし」の語がある)。張紘は楷篆にも優れ、孔融からその筆跡を称賛する書を受けた。
  • 子の張玄は南郡太守・尚書に至った(江表伝によれば清廉高潔だが才は父に及ばなかったという)。玄の子張尚は俊才と称され、孫皓時代に侍郎から侍中・中書令に抜擢された。琴や詩・鳥の学識をめぐる問答で孫皓の忌避を買い、のち他事に連座して投獄、尚書岑昬ら百余人の嘆願で死一等を減じられ建安に流されたが、久しくして誅殺された。
  • 張紘と同郡の秦松(字文表)・陳端(字子正)も孫策に見出され謀議に参与したが、いずれも早世した。