三國志卷五十二 吳書七 歩騭
歩騭は字を子山といい、臨淮淮陰の人(?–248年)。貧窮の中で瓜作りをしながら学問に励み、のち交州刺史として南方の諸勢力を服従させ、丞相にまで至った。人材登用に努め、呂壱の専横を諫めるなど直言を重ねた廉直な重臣であった。周昭は歩騭を、名利を争わず身を全うした当代随一の五人の一人に数えている。
出自と若年の苦労
- 歩騭は字を子山といい、臨淮淮陰の人。『呉書』は晋の大夫楊食が歩邑に采地を得たことに始まる家系とし、秦漢の際に功で淮陰侯に封じられた者の後裔とする。乱世に江東へ避難し、貧窮の中、広陵の衛旌と瓜作りで生計を立てながら夜は経伝を誦じ学問に励んだ。
- 会稽の豪族・焦征羌(名は矯)の元へ瓜を献じに赴いた際、長く待たされても騭は「侵されるのを恐れて来たのに、ここで去れば恨みを買うだけだ」と衛旌を諭して耐え、粗末な食事も平然と食べきった。衛旌が「なぜそこまで我慢できるのか」と怒ると、騭は「我らが貧賎ゆえに貧賎に応じた扱いを受けるのは当然、恥じることはない」と答えた。
治世と交州平定
- 孫権が討虜将軍のとき主記に召され、後に海塩長を経て車騎将軍東曹掾に辟された。建安十五年(210年)、鄱陽太守を経て交州刺史・立武中郎将となり南下した。翌年、使持節・征南中郎将を追加された。劉表の任じた蒼梧太守呉巨が内心異心を抱いていたため、騭はこれを招いて斬り、士燮兄弟をはじめ南方の諸勢力を服従させた。益州の豪族雍闓らが蜀の太守を殺し内附を求めた際も、騭は使者を送って懐柔し、平戎将軍・広信侯に任じられた。
- 延康元年(220年)、権は呂岱を騭の後任とし、騭は交州の義士一万を率いて長沙に出た。劉備の東征に伴い武陵の蛮夷が動揺すると、権は騭を益陽に進めさせ、劉備の敗戦後も動揺した零陵・桂陽の諸郡を平定した。黄武二年(223年)右将軍・左護軍に遷り臨湘侯に改封、五年(226年)仮節を得て漚口に屯を移した。
丞相としての諫言
- 権が帝位に即くと驃騎将軍・領冀州牧を拝し、西陵の都督として陸遜に代わり境を守った。太子孫登は騭に人材登用の意義を説く書を送り、騭はこれに応じて荊州にいる諸葛瑾・陸遜・朱然・程普・潘濬ら十一人の功績を条陳し、賢人登用を勧める上疏を行った。
- のち中書の呂壱が文書検校の職権を悪用して重罪をでっち上げるようになると、騭は「典校官が細事をあげつらい民を戦慄させている、昔の獄官は賢者に任せ冤罪がなかった、都では顧雍、武昌では陸遜・潘濬に公正な裁定を委ねるべきだ」と上疏した。さらに、天変地異(嘉禾六年五月十四日・赤烏二年正月一日および二十七日の地震)を臣下の専権の兆しと結びつけ、丞相顧雍・大将軍陸遜・太常潘濬に信任を厚くし他官に監視させぬよう説き、諸県の煩雑な小吏を廃するよう提言するなど、繰り返し諫言した。権も目を覚まし呂壱は誅された。
- 騭はたびたび人材を推薦し困窮者を救い、多くの上疏を行った。『呉録』は、北方からの投降者の情報を基に江防の強化を献策した逸話や、後の呂範・諸葛恪が「歩騭の上表を読むたびに笑ってしまう」と評した逸話を伝える。
晩年と一族
- 赤烏九年(246年)、陸遜に代わり丞相となったが、なお門生の教育に励み書物を手放さず、儒者のような質素な暮らしをした。ただし家内の妻妾の服飾は奢侈で、これを非難されもした。西陵に二十年在任し隣国の敵からも威信を敬われ、寛容で喜怒を表に出さない性格ゆえ内外が粛然としていた。
- 赤烏十一年(248年)に没し、子の歩協が嗣いで撫軍将軍を加えられ、協の死後は子の歩璣が嗣いだ。協の弟・歩闡は西陵督を継ぎ昭武将軍・西亭侯となったが、鳳皇元年(276年)繞帳督に召還されると、代々西陵にあった立場を失うことと讒言の禍を恐れて城に拠って晋に降った。璣と弟の璿を洛陽へ人質として送り、晋は闡を都督西陵諸軍事・衛将軍・儀同三司・侍中・仮節・領交州牧・宜都公とし、璣を江陵諸軍事の監督・左将軍・散騎常侍・廬陵太守・江陵侯、璿を給事中・宣威将軍・都郷侯とした。晋の車騎将軍羊祜・荊州刺史楊肇が救援に向かったが、孫皓の命で陸抗が西征しこれを退け、城を落として闡らを滅ぼした。歩氏はほぼ滅び、璿のみが祭祀を継いだ。
周昭の評(附記)
- 頴川の周昭は著書の中で歩騭・厳畯らを次のように評した。賢士大夫が名を失い身を滅ぼし国を害する原因は多いが、大別すれば「論議を急ぐこと」「名誉と権勢を争うこと」「派閥を重んじること」「功を急ぐこと」の四つに集約される。当世でこの四つを免れた者として、顧邵(豫章太守)・諸葛瑾(使君)・歩騭(丞相)・厳畯(衛尉)・張奮(奮威将軍)の五人が最も美しいと称え、それぞれの人柄を『論語』の言葉になぞらえて評した。
- 周昭はさらに、厳畯・歩騭・顧邵の三君が布衣の頃からの友であったこと、呂範の後任の座を厳畯が固辞したこと、張奮が親貴の身でありながら驕らず忠節を守ったことなどを詳しく論じ、経国の大功はなくとも純粋な道の実践者として後世の模範とすべきだと結んでいる。
- 周昭自身は字を恭遠といい、韋曜・薛瑩・華覈とともに『呉書』を編纂したが、後に中書郎となり事件に連座して投獄され、華覈の上表による救済も孫皓に聞き入れられず刑死した。
史論
- 評して言う。張昭は遺託を受けて権を輔佐し功を挙げ、忠実剛直で私心なく振る舞ったが、その厳しさゆえに憚られ、高潔さゆえに疎んじられ、宰相の座にも師傅の座にもつくことなく、市井に退いて老いた。これは孫権が孫策に及ばぬことを示すものである。顧雍は堅実な家業を背景に智略を発揮し、栄位を極めた。諸葛瑾・歩騭はともに徳行と度量をもって当代に重んじられ、張承・顧邵は謙虚な長者として人物を愛した。周昭の評はこれを大いに称えており、詳しく録した。顧譚は公事に忠貞を尽くした。張休・顧承もまた自らを修めて善を志したが、愛憎の党争に巻き込まれ南方へ流されて没した、哀しいことである。