三國志卷五十二 吳書七 張昭

張昭は字を子布といい、彭城の人(?–236年)。若くして学を修め、漢末の動乱で江東に渡り、孫策の創業を長史・撫軍中郎将として支えた。策の死に際し弟の孫権を託され、群臣を率いて権を立てて輔佐した。忠実剛直な人柄で権を諫めることが多く敬重されたが、丞相にはついに就かず、輔呉将軍として老いた。

年表(2件)

出自と若年

  • 張昭は字を子布といい、彭城の人。若くして学を好み隷書に巧みで、白侯子安に師事し『左氏春秋』を修め、諸書を博覧し、琅邪の趙昱・東海の王朗と交友を結んだ。弱冠で孝廉に察挙されたが応じなかった。
  • 王朗と旧君の諱をめぐる議論を交わし、州里の才士陳琳らに称賛された。当時、汝南主簿の応劭が旧君の名を避諱すべきだと論じ議論が分かれていたが(『風俗通』に見える)、昭は反論の論文を著し、「親愛の情には代を経て薄れる限度があり、五代を過ぎれば喪服も軽くなり六代で親族の縁は尽きる。邾の会盟で季友の名を書かなかった例や、周の穆王が『満』を諱したのに後世に王孫満という大夫が現れた例などから、旧君の名を無条件に避けるべきではない」と論じた。
  • 徐州刺史陶謙が茂才に推挙したが応じず、これを軽んじられたと怒った陶謙に拘束されるが、趙昱が身を挺して救い放免された。

孫策への出仕

  • 漢末の大乱で徐州の士民が多く揚州に避難する中、昭も南へ渡江した。孫策は創業に際し昭を長史・撫軍中郎将とし、自らの母への挨拶にも同席させるなど肩を並べる扱いをし、文武の事をことごとく昭に委ねた。『呉書』は策が「私は四方に事があるゆえ、賢士を推挙するにしてもあなたを軽んじることはできない」と語り、校尉に上表し師友の礼で遇したと伝える。
  • 昭が北方の士大夫から受け取る書簡はしばしば昭一人を賞賛するもので、昭は公にすべきか悩んだが、策はこれを聞いて笑い「昔、管仲は斉の桓公から一に仲父二に仲父と呼ばれ、それでも桓公は覇者の宗となった。今、子布は賢く私はこれを用いている、その功名は私にも帰する」と語った。

孫権への遺託

  • 策は臨終に弟の権を昭に託し、昭は群僚を率いて権を立て輔佐した。『呉暦』は策が「もし仲謀(権)が任に堪えぬなら、あなたが自ら取ってよい。事が成らずとも西に帰って構わない」と語ったと伝える。昭は漢室に上表し属城に通達して各将校の職務を確認させ、悲しみに沈み政務をとろうとしない権に「先軌を継ぎ業を興すことこそ後継の務め、天下が乱れる今、孝廉が哀傷に伏している場合ではない」と説き、自ら権を馬に助け乗せ兵を並べて出陣させ、人心を安んじさせた。昭は再び権の長史として前と同じ任にあたった。『呉書』は、権が出征する際は常に昭が留守を守り幕府の事を領し、黄巾の残党を討平し、合肥の権の征討では昭が別に匡琦を討ち諸将を督して豫章の賊・周凤らを南城で破り、以後、謀臣として常に権の側にあったと伝える。後に劉備が権を車騎将軍に推挙する上表を行った際、昭は軍師となった。

諫言の逸話

  • 権は狩猟を好み、馬で虎を射ることをしばしば行い、虎が馬の鞍に飛びかかることもあった。昭は色をなして進み出て「君主たる者は英雄を統御し賢者を用いるべきで、猛獣と勇を競うものではない、万一の禍があれば天下の笑いものになる」と諫めた。権は「若気の至りで思慮が浅かった」と謝したが、狩りをやめず、目張りをした専用の射虎車を作って自ら射るようになった。昭はそのたびに諫めたが権は笑うのみで改めなかった。
  • 魏の黄初二年(221年)、魏の使者邢貞が権を呉王に封じる詔をもたらした際、車から降りずに入城しようとしたため、昭は「礼を欠くことは許されぬ、江南が弱小だからといって刃を持たぬわけではない」と叱責し、邢貞は慌てて車を降りた。昭は綏遠将軍・由拳侯に任じられた(『呉録』は昭が孫邵・滕胤・鄭礼らと周・漢の礼を採り朝儀を制定したと伝える)。
  • 権が武昌の釣台で酔い、群臣に水を浴びせて「今日は酔って台から落ちるまで飲む」と命じた際、昭は正色して外の車に退いた。権が呼び戻し「共に楽しんでいるだけだ、なぜ怒るのか」と問うと、昭は「昔、殷紂王は酒池肉林の長夜の宴を楽しみとしたが、悪とは思わなかった」と答え、権は黙って恥じ入り酒宴をやめた。

丞相辞退と老後

  • 権が丞相を置こうとした際、衆議は昭を推したが、権は「今は多事の折、責任重い職を優遇するわけにはいかない」と退けた。後に孫邵が没し百官が再び昭を推すと、権は「子布を惜しむのではない。丞相の職は煩雑で、この人は性格が剛直で言うことが通らねば怨みが生じよう」と述べ、顧雍を用いた。
  • 権が帝位に即くと、昭は老病を理由に官位と領地を返上した。『江表伝』は、権が即位の宴で功を周瑜に帰した際、昭が笏を挙げて自らの功徳を称えようとすると、権が「張公の計に従っていれば今頃は乞食の身であった」と皮肉り、昭は大いに恥じて汗を流したと伝える。昭は忠実剛直で大臣の節を備え権にも敬重されたが、丞相にされなかったのはかつて周瑜・魯粛らの主戦論を非としたためであった。裴松之は、昭が曹操への帰順を勧めたのは、天下統一によって戦乱を終わらせる遠大な志であり、孫氏に功は無くとも天下には大きな益であったはずと弁護し、竇融の漢帰順や張魯の魏降伏が厚遇された例を挙げ、昭の忠正を評価している。
  • 昭は輔呉将軍に任じられ、位は三司に次ぎ、婁侯に改封され食邑一万戸を得た。郷里では『春秋左氏伝』の解説と『論語』注を著した。権が衛尉の厳畯に幼時の暗誦を問うと、厳畯が『孝経』を誦じたのに対し、昭は「厳畯は鄙生、私が陛下のために誦じましょう」と『論語』の一節を誦じ、人々は昭が誦ずべき文をよく知っていると評した。

晩年の直言

  • 昭は朝見のたびに厳しい語調で義憤を面に表し、直言が権の意に逆らって朝見を許されぬ時期もあった。蜀の使者が来て蜀の徳を称えた際、群臣が誰も反論しなかったことに権は「張公がいれば論破されていただろうに」と嘆き、翌日わざわざ使者を送って昭に会見を求めた。昭は「太后・桓王(孫策)は私に陛下を託されたゆえ、忠節を尽くしてきたが、意に逆らうことも多く見捨てられたと諦めていた。再びお目にかかれるとは思わなかった。ただ国に尽くす志は変わらぬ、栄達のために心変わりすることはできない」と述べ、権は謝意を示した。
  • 権が公孫淵の帰順を認め張弥・許晏を遼東に遣わし燕王に封じようとした際、昭は「淵は魏を裏切って討伐を恐れ助けを求めているに過ぎない、心変わりして使者を殺せば天下の笑いものになる」と強く諫めた。権が刀を按じて怒り「呉の士人は宮中で私を拝すが、宮を出れば君を拝する。私の敬意も極まっているのに、なぜ人前で恥をかかせるのか」と言うと、昭は権を見据えて「太后が臨終の枕元で私に遺詔を託されたゆえ、忠を尽くさずにいられぬ」と涙した。権は刀を投げ捨てて昭とともに泣いたが、結局は張弥・許晏を派遣した。昭は用いられぬことを恨み病と称して朝廷に出仕せず、権は怒って昭の門を土で塞ぎ、昭も内側から土で塞ぎ返した。果たして公孫淵は張弥・許晏を殺した。権は何度も謝罪したが昭は応じず、権が門前で呼びかけても病篤しと拒み、門に火をつけて脅しても昭は閉じたまま応じなかった。権は火を消させ長く門前で待ち、昭の子らが昭を助け起こしてようやく権とともに宮に戻り、権は深く自らを責めた。習鑿歯はこの経緯を、臣下たるもの三度諫めて聞き入れられねば身を引くべきで、権が過ちを悔いて求めても閉門し焼き討ちに遭うまで待つのは道理に悖ると批判している。
  • 昭は容貌厳粛で威風があり、権は常に「張公と話すときは軽率になれぬ」と語り、国じゅうが畏れた。八十一歳、嘉禾五年(236年)に没した。遺言により質素な棺で普段着のまま葬られ、権は喪服で弔問し謚を文侯とした。『典略』は、祢衡が劉表の代筆草稿を浅薄と嘲笑した逸話を引きつつも、昭は蘊藉典雅で呉の中で「仲父」とまで称された一時の良才であったが、その才が嵩岳のような大舞台でなく会稽の地で終わったことを惜しむ。長子の張承は既に自ら侯に封じられており、少子の張休が爵位を襲った。

張奮(張昭の弟子)――若くして将となる

  • 張昭の弟子の張奮は二十歳で攻城用の大攻車を造り、歩騭に推挙された。昭は「お前はまだ若い、なぜ自ら軍旅に身を投じるのか」と反対したが、張奮は「昔、童子の汪錡は国難に死し、子奇は若くして阿の地を治めた。私が不才なだけで年齢は問題ではない」と答え、兵を領して将軍となり功を重ね、都督にまで至って楽郷亭侯に封じられた。

張承(張昭の子)――人材登用の才

  • 張承は字を仲嗣といい、若くして才学で知られ、諸葛瑾・歩騭・厳畯と親しく交わった。権が驃騎将軍のとき西曹掾に辟され長沙西部都尉に出て山賊を討ち一万五千の精兵を得た。後に濡須都督・奮威将軍となり都郷侯に封じられ部曲五千を領した。
  • 人物を見抜く才があり、無名であった彭城の蔡款・南陽の謝景を見出し、後に款は衛尉、景は豫章太守として国士と称された。若き日の諸葛恪を人々が英才と讃える中、承だけは「諸葛氏を最後に滅ぼすのは元遜(諸葛恪)であろう」と評していた。年六十七、赤烏七年(244年)に没し謚を定侯とした。子の張震が嗣いだ。
  • 初め承が妻を亡くした際、張昭が諸葛瑾の娘を娶らせようとしたが、承は互いに親しい間柄であることを憚った。権がこれを聞いて勧めたため縁組みが成り、生まれた娘は権の子・孫和の妃となった。権はしばしば和に承への礼を尽くさせたという。震は諸葛恪の誅殺時に連坐して死んだ。

張休(張昭の子)――讒言による死

  • 張休は字を叔嗣といい、弱冠で諸葛恪・顧譚らとともに太子孫登の学友となり『漢書』を進講した。人に解け合いやすい性格で登に深く愛された。中庶子から右弼都尉に転じ、権の狩猟を諫める上疏が大いに評価され昭に示された。登の死後は侍中・羽林都督となり揚武将軍に遷った。
  • 魯王孫覇の党派の讒言により、顧譚・顧承とともに芍陂の戦功をめぐる不正を疑われ、典軍の陳恂と結託して戦功を偽って増やしたとして交州に流された。中書令の孫弘は佞悪な人物で休がかねて憤っていたが、この孫弘の讒訴により賜死の詔が下り、休は四十一歳で死んだ。