三國志卷五十二 吳書七 顧雍
顧雍は字を元歎といい、呉郡呉の人(?–243年)。若くして各地で治績を挙げ、孫邵の没後、群臣に推されて丞相・平尚書事となった。寡言で私情を挟まず、施策の可否を密かに権に進言する慎重な人柄で権に重んじられ、十九年にわたり丞相を務めた。
出自と若年の治績
- 顧雍は字を元歎といい、呉郡呉の人。蔡邕(伯喈)が朔方から呉に戻った際、雍は琴と書を学んだ。蔡邕は雍を高く評価し「あなたは必ず大成する」と自らの名(雍)を与えたため、蔡雍と同名になったという(諸伝の由来説)。
- 州郡の推薦で弱冠にして合肥長となり、婁・曲阿・上虞と歴任していずれも治績を挙げた。孫権が会稽太守を兼領した際、赴任せず雍を丞として太守事を代行させ、賊を討伐して郡内を平定し吏民の信頼を得た。数年後に左司馬となり、権が呉王になると大理・奉常を歴任し尚書令を領し、陽遂郷侯に封じられたが自宅に帰るまで家人にも知らせず、後に聞いて驚いたという。
丞相としての公正
- 黄武四年(225年)、母を呉に迎え、権自ら庭で母に拝礼し公卿大臣が集って祝った。雍は酒を飲まず寡言で挙動が節度あり、権は「顧君は多くを語らないが、語れば必ず的を射る」と評した。宴席では周囲が酒失を恐れて浮かれず、権も「顧公が座にいると人を楽しませない」と語ったという。
- この年、太常に転じ醴陵侯に進み、孫邵に代わって丞相・平尚書事となった。文武の人材を能力に応じて用い、私情を挟まなかった。民間の情勢や施政の可否を密かに権に伝え、採用されれば功を権に帰し、採用されなければ口外しなかった。権はこれを重んじつつも、公の場では従順に見せながらも自らの正しい意見を通した。ある時、張昭が法令の煩雑さと刑罰の重さを緩めるよう権に進言すると、権は雍に意見を求め、雍が「私の考えも張昭と同じです」と答えたことで、権は刑を軽くする議論を始めた。
- 『江表伝』は、権が中書郎を通じて雍の意見を求め、雍が同意すれば施策とし酒食を設けたが、不同意なら黙して何も言わず退けたこと、権が雍の反応で施策の当否を測ったことを伝える。前線の諸将が功名を焦って掩襲策を献じた際も、雍は「兵法は小利を戒める、これらは私利のためであり国のためではない」と却下させた。国事の得失は面と向かってのみ語り、決して口外しなかった。
呂壱事件での寛容
- のち中書の呂壱・秦博が官府・州郡の文書を検校する職権を悪用して威福をほしいままにし、専売の利を作り上げ罪をあげつらい重罪をでっち上げて大臣を誹謗した。雍もこれに讒言され譴責を受けたが、後に呂壱の奸悪が露見して延尉に投獄されると、雍は自ら断獄に赴き、囚われた呂壱に穏やかな態度で応対し、退出する際「他に言いたいことはないか」と問うたが、呂壱は叩頭するのみで何も言わなかった。尚書郎の懐叙が呂壱を面罵した際、雍は「官には正しい法がある、なぜここまでするのか」とたしなめた。
- 『江表伝』は、権が姪の婚礼に雍父子と孫の顧譚を招いた宴で、選曹尚書として重用されていた顧譚が酔って舞を止められなかったことを、雍が翌日厳しく叱責した逸話を伝える。徐衆はこの一件について、雍が呂壱を寛容に扱ったのは長者の徳とはいえ、真意を問うたことは奸悪を助長しかねず適切でなかったと評している。
晩年
- 丞相を十九年務め、七十六歳、赤烏六年(243年)に没した。病が軽かった時、権が医師の趙泉に診させ、その少子の顧済に騎都尉を拝命させた。雍はこれを聞いて「趙泉は生死を見分けるのが巧みだ、私はもう助からない、それで生前に済の拝命を見せようとされたのだ」と悲しんだ。権は喪服で弔問し謚を粛侯とした。
- 長子の顧邵は早くに没し、次子の顧裕は篤い病を持ち、少子の顧済が嗣いだが後嗣なく爵は絶えた。永安元年(258年)、詔により雍の次子・顧裕が醴陵侯として爵を襲った。『呉録』は裕の別名を穆とし、宜都太守で終わったこと、その子・顧栄が東南の名士として仕え晋で高位に至ったことを伝える。雍の母方の弟・張徽(原文のまま「雍母弟徽」)は才弁で知られ、盗みで処刑されかけた小男を助命させた逸話や、曹操のもとへ使者として赴き応対した逸話が伝えられる。雍の一族の顧悌は孝悌廉正で知られ、父の病に際して深く孝を尽くした逸話が詳しく伝わる。
顧邵(顧雍の子)――豫章太守としての治績
- 顧邵は字を孝則といい、博覧強記で人物評に長けた。若くして舅の陸績と並び称され、陸遜・張敦・卜静らもこれに次いだ。州郡・四方から人が訪れ、その評判は遠近に知られた。権は孫策の娘を邵に嫁がせた。二十七歳で豫章太守となり、赴任すると先賢徐孺子の墓を祀りその後裔を優遇し、みだりな祭祀を禁じ、資質ある小吏を学問に就かせて風化を大いに進めた。銭唐の丁諝・陽羨の張秉・烏程の呉粲・雲陽の殷礼といった微賎の出の人材を見出して交友を結び、名声を高めてやった。張秉の喪に自ら喪服を着けるほど彼らに心を配った。丁諝は典軍中郎、張秉は雲陽太守、殷礼は零陵太守、呉粲は太子少傅に至り、世は邵を「人を知る者」と評した。在任五年で官に没し、子の顧譚・顧承・顧雲が続いた。
顧譚(顧邵の子)――嫡庶論と流刑
- 顧譚は字を子黙といい、弱冠で諸葛恪らとともに太子孫登の四友となり、中庶子から輔正都尉に転じた。陸機の顧譚伝によれば、太子の傍らに集った俊英の中でも譚の見識は抜きん出て推重されたという。赤烏中、諸葛恪に代わって左節度となった。細かな帳簿も指を折って暗算し、疑わしい誤りをことごとく見抜いたため下吏に畏敬された。薛綜が選曹尚書を固辞して譚に譲るほど評価された。
- 祖父雍の死後数か月で太常となり、平尚書事を代行した。当時、魯王孫覇が太子孫和と並ぶほどの寵愛を受けており、譚は上疏して「嫡庶の別を明らかにしなければ骨肉の禍を招く」と諫めた。賈誼の治安策や、漢文帝が慎夫人を皇后と同席させ袁盎が諫めた故事を引き、太子を安んじ魯王のためにもなると説いた。
- これにより魯王孫覇と譚の間に確執が生じた。折しも譚の弟顧承が張休とともに寿春の戦(芍陂の役)で全琮の下で戦功を挙げたが、全琮の子・全寄らが自分たちの戦功を過小評価されたと恨み、休・承が典軍の陳恂と結託して戦功を偽ったと讒言した。休は投獄され、権は雍への配慮から即断せず、譚に謝罪させて釈放しようとしたが、大会の席で問われた譚は謝らず「陛下、讒言が興っているのではありませんか」と答えた。『江表伝』は、有司が譚を「誣罔大不敬」として死罪を求めたが、権が雍の功に免じて流罪にとどめたと伝える。譚は交州へ流され、憂憤のうちに『新言』二十篇を著し、その「知難篇」は自らの心境を悼むものであったという。流刑二年、四十二歳で交阯に没した。
顧承(顧邵の子)――交州への流罪
- 顧承は字を子直といい、嘉禾中に舅の陸瑁とともに礼をもって召された。権は丞相雍に「貴孫子直の評判は聞きしにまさる」との書を送った。騎都尉として羽林兵を領し、後に呉郡西部都尉として諸葛恪らと山越を討平し精兵八千を得て昭義中郎将となり、侍中に転じた。芍陂の役で奮威将軍を拝し京下督を領したが、数年後、兄の譚・張休らとともに交州へ流されるのを恐れる中、三十七歳で没した。