三國志卷四十八 三嗣主傳第三 孫皓

孫皓は字を元宗といい、孫権の孫、和の子。またの名は彭祖。孫休の即位後に烏程侯となり、休の崩御に際し年長の君主を望む声に押されて23歳で即位した。即位当初は善政で名君と称されたが、次第に粗暴・驕慢となり淫刑を重ねて晋との関係も断絶させた。天紀四年(280年)晋軍に降伏して呉は滅び、帰命侯に封じられた。

年表(10件)

即位から呉の滅亡まで

  • 字は元宗、権の孫、和の子。またの名は彭祖、字皓宗。孫休の即位後、烏程侯に封じられ任国へ赴いた。西湖の民景養は皓を大貴の相と見た。休の崩御に際し、蜀滅亡と交阯の離反で国内が動揺し年長の君主を望む声が強く、左典軍万彧の推薦(皓は長沙桓王の器で好学・遵法とする評)が丞相濮陽興・左将軍張布に伝わり、両者は休の皇太后朱氏を説得。太后は「宗廟の安泰さえ保たれれば良い」として同意し、皓が23歳で即位。改元・大赦。魏の咸熙元年にあたる。
  • 元興元年(264年)八月、上大将軍施績・大将軍丁奉を左右大司馬、張布を驃騎将軍・侍中とし、諸将吏の位を旧に復した。九月、太后朱氏を景皇后に落とし、父孫和を文皇帝、母何氏を太后とした。十月、休の太子を豫章王、他の子を汝南王・梁王・陳王とし、皇后滕氏を立てた。当初皓は善政(士民救済・宮女解放・苑の禽獣放免)で名君と称されたが、次第に粗暴・驕慢となり酒色を好んで人々を失望させた。興・布はひそかに後悔したが、これを讒言され十一月に両者は誅殺された。十二月、孫休を定陵に葬る。皇后の父滕牧を高密侯とした。晋(司馬文王)は降将徐紹・孫彧を通じ、皓に和平を勧める長文の書簡を送った。
  • 甘露元年(265年)三月、皓は紹・彧に返書を託し、光禄大夫紀陟・弘璆を晋へ派遣した。夏四月、蔣陵に甘露が降り、改元大赦。秋七月、皓は景后朱氏を逼り殺し、正殿でなく苑中の小屋で密かに葬った。休の4子のうち年長の2人も追って殺害。九月、西陵督歩闡の上表により都を武昌に移し、御史大夫丁固・右将軍諸葛靚に建業を守らせた。紀陟・弘璆は洛陽で文帝の崩御に遭い、十一月に帰還を許された。十二月、晋が禅譲を受けた。
  • 寳鼎元年(266年)正月、大鴻臚張儼・丁忠を晋文帝の弔祭に遣わすが、帰路儼は病死した。丁忠は「魏(晋)の守備は手薄で弋陽を襲取できる」と進言、群臣に諮ると鎮西大将軍陸凱は無謀と反対、車騎将軍劉纂は間諜を先に送るべきと述べた。皓は蜀が平定されたばかりでもあり出兵を控えたが、以後晋との関係は事実上断絶した。八月、鼎の出土を瑞祥として改元・大赦。陸凱を左丞相、万彧を右丞相とした。冬十月、永安山の賊施但らが皓の庶弟永安侯謙を擁して挙兵し1万余に膨らんだが、丁固・諸葛靚が牛屯で撃破、謙は自殺。皓は荊州の王気を鎮めるためと称し名家の墓を暴かせた。会稽を分けて東陽郡、呉・丹楊を分けて呉興郡とした。十二月、皓は建業に帰還、滕牧を武昌に残した。
  • 寳鼎二年(267年)夏六月、顕明宮を造営、二千石以下の官が山林の伐採を督した。陸凱は固く諌めたが従われなかった。冬十二月、遷居。豫章・廬陵・長沙を分けて安成郡とした。
  • 寳鼎三年(268年)二月、丁固・孟仁を司徒・司空とした。秋九月、皓は東関に出、丁奉は合肥に至った。この年、交州刺史劉俊らが交阯攻撃に失敗し全滅、合浦へ敗走した。
  • 建衡元年(269年)正月、子の瑾を太子とし淮陽王・東平王を立てる。冬十月、改元大赦。十一月、左丞相陸凱が死去。虞汜・薛珝・陶璜、李勗・徐存の二路から交阯攻略に向かわせた。
  • 建衡二年(270年)春、万彧が建業に帰還。李勗は道が通じぬとして案内役の馮斐を殺し撤兵、後に処刑された。三月、火災で万余家焼失、死者700人。夏四月、左大司馬施績が死去。九月、都督孫秀が晋に亡命。
  • 建衡三年(271年)正月晦、皓は母・妃妾を伴い大軍を率いて華里に出るが、東観令華覈らの諫止で撤回した。この年、虞汜・陶璜が交阯を破り晋の守将を討ち、九真・日南も呉に復帰した。
  • 鳳凰元年(272年)秋八月、西陵督歩闡を召還するが応じず晋に降伏。陸抗が包囲攻略し闡らを平定、闡と同計の者数十人を三族処刑。右丞相万彧は皓の疑いを受け自殺に追い込まれ、子弟は廬陵へ流された。奸悪が発覚した何定は誅殺された。
  • 鳳凰二年(273年)春三月、陸抗を大司馬とした。司徒丁固が死去。秋九月、淮陽を魯、東平を斉と改封するなど11王を封じ、各王に3千の兵を与えた。皓の愛妾が市中で百姓の財物を奪わせたことを司市中郎将陳声が法により処罰すると、皓は激怒し声を焼鋸で処刑した。太尉范慎が死去。
  • 鳳凰三年(274年)会稽で章安侯奮が天子になるとの妖言。臨海太守奚熙と会稽太守郭誕の書簡が問題視され、郭誕の功曹邵疇が身代わりに自殺して誕を弁護、皓は誕を減刑した。奚熙は挙兵し部下に殺された。秋七月、逃亡・叛乱者の摘発に使者25人を派遣。大司馬陸抗が死去。改元以来疫病が続いた。鬱林を分けて桂林郡とした。
  • 天冊元年(275年)呉郡で銀の出土(年月の刻字あり)を瑞祥として改元大赦。
  • 天璽元年(276年)呉郡の臨平湖の再開通、石函の出土(皇帝の字の刻字)を瑞祥として改元大赦。会稽太守車浚・湘東太守張詠が租税未納を理由に処刑される。秋八月、京下督孫楷が晋に降伏。鄱陽の石文(「楚九州渚、呉九州都、揚州の士、天子となる、四世治まり太平始まる」)の瑞祥が奏上された。翌年改元。
  • 天紀元年(277年)夏、夏口督孫慎が江夏・汝南を略奪。司直中郎将張俶の姦悪が発覚し誅殺(父子共に車裂)。
  • 天紀二年(278年)秋七月、成紀・宣威等11王を立て、各3千の兵を与えて大赦。
  • 天紀三年(279年)夏、郭馬の反乱。合浦太守脩允の部曲督であった馬は、允の死後の兵の分割に反発し、広州督虞授を殺害して都督交広二州諸軍事・安南将軍を自称、何典・王族・呉述・殷興らと蒼梧・始興を攻めた。八月、軍師張悌を丞相、何植を司徒、滕循を司空(のち鎮南将軍・仮節領広州牧)とし、東西二路で討伐に向かわせた。冬、晋は司馬伷・王渾・王戎・胡奮・杜預・王濬・唐彬・賈充ら大軍を動員して呉を包囲する態勢を整えた。陶濬は武昌に留まり進まなかった。
  • 皓は日常的に群臣を泥酔させ、黄門郎10人に監視させて過失を密告させる恐怖政治を敷き、後宮数千人を採用し続け、意に沿わぬ者を殺し、面や眼を傷つける残虐な仕置きもあったと伝わる(真偽には異説あり)。岑昬ら佞臣が寵愛され民心は離反した。
  • 天紀四年(280年)正月、中山王ら11王を立て大赦。晋の王濬・唐彬の軍は各地で瓦解する呉軍を破竹の勢いで進み、杜預は江陵督伍延を斬り、王渾は丞相張悌・丹楊太守沈瑩らを討った。三月丙寅、殿中の近臣数百人が岑昬の処刑を皓に迫り、皓はこれを認めて岑昬は誅された。戊辰、陶濬は武昌から召還され節鉞を授かるが、その夜のうちに軍勢は逃亡してしまった。王濬の水軍が迫り、司馬伷・王渾も近づく中、皓は薛瑩・胡沖の献策により王濬・司馬伷・王渾へ降伏の書を送った。壬申、王濬が最初に到着し皓の降伏を受け入れ、縛めを解いて対面した。皓は一族を伴い西へ移り、太康元年五月、洛陽に至った。四月、皓を帰命侯に封じ田・穀・銭・絹・綿を賜る詔が出された。太子瑾は中郎、他の子は郎中となった。

【評】

  • 評曰(陳寿):孫亮は幼く賢輔もなくその地位を保てなかったのは必然であった。孫休は旧恩により濮陽興・張布を重用し、優れた人材の登用も改革も行えず、学を好んでも乱を救うには至らなかった。しかも廃された孫亮を非業の死に至らせ、兄弟の情に薄かった。孫皓の淫刑による死者・追放者は数え切れず、群臣は日々戦々恐々として朝から夕を計れぬ有様であった。熒惑星や巫祝による瑞祥を頼みとしたが、舜・禹のような聖王でさえ臣下の直言を求め続けたのに、皓は凶暴を極め忠諫の臣を誅し讒諛の臣を用い、民を虐げ淫侈を窮めた。腰斬に処されても当然のところ、不死の詔と帰命侯の寵を受けたのは、まことに寛大に過ぎる恩沢であった。
  • 孫盛曰:古の君主は天地に則り万物を覆うべきものであり、淫虐の限りを尽くせば天がこれを誅し独夫の辱めを受ける。湯武・漢高祖が悪逆を討ったのは天下万民の仇敵を除いたためである。孫皓の罪は桀紂にも勝るというべきで、梟首されても冤魂を慰めるに足りぬところ、なお優詔と恩寵を受けたのは、僭逆・凶虐を懲らしめる道に反する。神旗が呉の都に迫り、進退窮まってようやく降を請うたのであり、赦免に値する道理は薄いとする。
  • 陸機『辨亡論』(上篇):呉の興隆の由来を、武烈皇帝孫堅の忠勇、長沙桓王孫策の果断な江東平定、張昭・周瑜ら賢才の輔佐、そして大皇帝孫権が張昭を師傅、周瑜・陸遜・魯粛・呂蒙を腹心股肱とし、甘寧・淩統・程普・賀斉・朱桓・朱然・韓当・潘璋・黄蓋・蔣欽・周泰ら勇将、諸葛瑾・張承・歩騭ら文臣、顧雍・潘濬・呂範・呂岱ら能吏、虞翻・陸績・張温ら諫臣、趙咨・沈珩ら外交の才、呉範・趙達ら術数の士、董襲・陳武の殉節、駱統・劉基の直諫など人材を存分に用いたことにあると説く。赤壁では周瑜が曹操の百万の軍を破り、夷陵・西陵では陸遜が劉備・晋軍を退け、濡須の防衛も成功し、ついに魏に和を請わせ蜀と鼎立するに至った経緯を述べる。西は庸蜀、北は淮漢、東は百越、南は諸蛮にまで威を及ぼし、礼楽を興し四夷を懐柔した盛時を描く。大皇帝没後、幼主(孫亮)の代に姦臣が肆虐し、景皇帝(孫休)は旧法を守る良主であったが、帰命侯(孫皓)の初めにはなお故老の重臣(陸抗・陸凱・施績・范慎・丁奉・鍾離斐・孟宗・丁固・楼玄・賀劭ら)が残っていた。しかし末年に至り群公が相次いで世を去ると民心は離反し、晋軍はわずかな期間で呉の社稷を覆したと総括する。
  • 陸機『辨亡論』(下篇):魏・蜀・呉の三方の統治を比較し、魏は華を得たが民の怨みを買い、蜀は険阻に頼り俗が陋であったのに対し、呉の桓王(孫策)は武で基礎を築き、太祖(孫権)は徳でこれを完成させたとする。孫権が呂蒙・潘濬を抜擢し、魯粛・士燮の帰服を得、張昭・諸葛瑾・陸遜・劉基らの諫言を容れ、周瑜・淩統らを厚遇した誠実な人材登用を称える。国力は広大で兵は精強、山川の険により長らく安泰であったが、末年に至り天険のみを恃んで人和を失ったことが滅亡の因であるとし、『荀子』の「参(天時・地利・人和)を合わせる」「参を舎てる」の説を引いて総括する。太康の役は往時の軍よりも規模は小さかったにもかかわらず呉が滅んだのは、国を治める道を誤ったためであり、天険を頼むだけでは国は保てぬと結ぶ。