三國志卷四十八 三嗣主傳第三 孫休
孫休は字を子烈といい、孫権の第六子。若くして射慈・盛冲に学んだ。琅邪王に封じられた後、諸葛恪の専政や太守李衡との軋轢で各地に移された。孫亮の廃位に伴い孫綝らに迎えられて即位し、まもなく孫綝を誅殺して実権を取り戻した。学問を好んだが濮陽興・張布に旧恩で政務を委ね、永安七年(264年)30歳で崩御した。諡は景皇帝。
即位から崩御まで
- 字は子烈、権の第六子。13歳で中書郎射慈・郎中盛冲に学んだ。太元二年正月、琅邪王に封じられ虎林に居住。四月、権薨去し弟の亮が即位、諸葛恪の専政下で王族が江辺の軍事拠点に留まることを嫌われ丹楊郡に移された。太守李衡がしばしば休を苦しめたため会稽への転封を願い出て許された。会稽で「龍に乗り天に昇るが尾が見えない」夢を見たという。
- 亮の廃位に伴い、孫綝は宗正孫楷と中書郎董朝を遣わし休を迎えた。休は疑いつつも一夜二晩の説得を経て出発。十月、曲阿で老人が「早く進まれよ」と忠告、布塞亭に至る。武衞将軍孫恩(綝の弟)が百官を率い永昌亭で迎え、休は三度辞退した末に璽符を受け即位。綝は兵千人で迎え道端で拝礼、休は答礼した。即日、大赦・改元(永安元年)。魏の甘露三年にあたる。
- 永安元年(258年)冬十月、詔で孫綝を丞相・荊州牧とし5県を加増、孫恩を御史大夫・衞将軍・中軍督、張布を輔義将軍・永康侯などに封じた。また丹陽太守李衡の過去の非礼を赦し郡に復帰させた。
- 己丑、孫皓を烏程侯、弟の孫德を銭唐侯、孫謙を永安侯に封じた。群臣が皇后・太子の冊立を求めたが休は謙譲して固辞した。
- 十一月、孫綝一門五侯が禁兵を掌握し権勢を振るったため、休は加増しつつも変事を警戒した。頃之、休は綝の逆謀を察知し張布と密議、十二月戊辰、朝賀の場で武士に綝を捕らえさせ即日処刑した。張布を中軍督・輔義将軍とし、弟の張惇・張恂を要職に任じた。
- 学官の設置・五経博士による教育振興の詔を発した。
- 永安二年(259年)正月、雷電。三月、九卿の官を整え、農桑振興と租税軽減による民力回復を説く長文の詔を発した。
- 永安三年(260年)春、西陵に赤烏出現の報。秋、浦里塘を造営。会稽の童謡「王亮まさに天子として還るべし」を口実に亮の宮人が誣告され、亮は候官侯に落とされ赴任途上で自殺(鴆殺との異伝もある)。会稽南部を建安郡、宜都の一部を建平郡とした。
- 永安四年(261年)夏五月、大雨・水害。秋八月、光禄大夫周弈・石偉を各地に派遣し風俗の視察と官吏の清濁査定を行わせた。九月、布山に白龍出現の報。安吳の民陳焦が死後6日で蘇生し土中から出てきたとの奇談。
- 永安五年(262年)春二月、白虎門北楼が焼失。秋七月、始新に黄龍出現。八月、大雨・雷電・水害。皇后朱氏を立て、子を太子に立て大赦。冬十月、衞将軍濮陽興を丞相、丁密・孟宗を左右御史大夫とした。休は興と張布に旧恩により政務を委ね、自らは典籍を好み博士韋曜・盛沖と学問を講じようとしたが、張布は自らの過失を暴かれることを恐れて妨げようとした。休は再三布を諭したが、結局講学は行われなかった。是歳、交阯に孔雀・大猪の調達を命じた。
- 永安六年(263年)夏四月、泉陵に黄龍出現。五月、交阯郡吏呂興らが太守孫諝を殺害して反乱。冬十月、蜀が魏の侵攻を報告。丁奉に寿春方面、留平に南郡方面、丁封・孫異に沔中方面と、それぞれ蜀救援の兵を送るが、蜀主劉禅が魏に降ったとの報が届き中止。呂興は魏に太守と兵を求めた。丞相濮陽興が屯田兵1万を徴発。武陵を分けて天門郡とした。
- 永安七年(264年)正月、大赦。二月、陸抗・歩協・留平・盛曼が蜀の巴東守将羅憲を包囲。夏四月、魏の王稚が海路句章を襲い民200余口を略奪、孫越がその船を捕らえ30人を得た。秋七月、海賊が海塩を破り司塩校尉駱秀を殺害。豫章の民張節らが反乱、衆1万余人。魏の胡烈が2万で西陵を侵し羅憲を救おうとしたため陸抗らは撤退。交州を分けて広州を再置。癸未、休が崩御。時に30歳、諡は景皇帝。