三國志卷四十八 三嗣主傳第三 孫亮
孫亮は字を子明といい、孫権の末子。母は潘氏。姉全公主の後押しで全氏を妃とし、赤烏十三年に兄和が廃されると太子に立てられた。太元二年(252年)に権が崩じて10歳で即位したが、諸葛恪・孫峻・孫綝と権臣が相次いで実権を握った。孫綝の専横を除こうとして露見し、太平三年(258年)16歳で廃されて会稽王に落とされた。
即位から廃位まで
- 字は子明、権の末子。権は晩年で亮が末子であったため特に目をかけた。姉の全公主は太子和の母を讒言したことで自身の立場に不安を覚え、権に取り入るため全尚の娘を亮に嫁がせるよう繰り返し勧めた。赤烏十三年、和が廃されると、権は亮を太子に立て全氏を妃とした。
- 太元元年(251年)夏、亮の母潘氏が皇后に立てられた。冬、権は病臥し、大将軍諸葛恪を太子太傅、会稽太守滕胤を太常とし太子輔佐を命じた。翌年(太元二年、252年)四月、権が崩御し太子が即位、大赦・改元(建興元年)。魏の嘉平四年にあたる。
- 閏月、諸葛恪を帝の太傅、滕胤を衞将軍領尚書事、上大将軍呂岱を大司馬とし、文武百官を昇進させた。冬十月、太傅諸葛恪が軍を率いて巣湖を遮り東興に築城、全端に西城、留略に東城を守らせた。十二月、魏の諸葛誕・胡遵ら7万が東興を包囲、王昶が南郡を、毌丘倹が武昌を攻めるが、恪は大軍で駆けつけ東興で大破し韓綜・桓嘉らを討った。同月、雷雨で武昌の端門などが焼けた。
- 建興二年(253年)正月、皇后全氏を立て大赦。二月、王昶らは東興戦の敗北で退却。三月、恪は魏へ出兵し新城を包囲するが、夏四月、大疫で兵卒が大半死亡、秋八月、撤兵。冬十月、大饗の席で武衞将軍孫峻が伏兵をもって諸葛恪を殺害、大赦。孫峻が丞相・富春侯となった。
- 五鳳元年(254年)夏、大水。秋、呉侯孫英が孫峻の暗殺を謀るが発覚し自殺。冬十一月、星が斗・牛宿を犯した。
- 五鳳二年(255年)正月、魏の毌丘倹・文欽が淮南の兵で西進し楽嘉で戦う。閏月、孫峻・呂拠・留賛が寿春を襲うが、文欽ら敗北の報を聞き文欽は峻に降り、淮南の残兵数万が呉に帰順。魏の諸葛誕が寿春に入ると峻は撤兵。留賛は諸葛誕配下の蒋班に菰陂で敗れ戦死。秋七月、孫儀・張怡・林恂らの孫峻暗殺計画が発覚し儀は自殺、恂らは処刑。是歳大旱。十二月、太廟を建て、馮朝を監軍使者・督徐州諸軍事とした。民は飢え軍士に怨みの声が上がった。
- 太平元年(256年)正月、権のために太祖廟を建てた。二月、建業で火災。孫峻は文欽の計に従い魏を征しようとしたが、九月に病死。従弟の孫綝が侍中・武衞将軍・領中外諸軍事となり、呂拠らを召還した。呂拠は峻の後任が綝であることに激怒。滕胤を丞相に推す上表を綝は拒否、代わりに滕胤を大司馬として呂岱の後任とした。呂拠は軍を返して綝を討とうとするが、綝の詔書に応じた文欽・唐咨らに追われ、十月、孫憲・丁奉・施寛らが江都で呂拠を迎撃、劉丞が滕胤を攻めて滅ぼした。大赦、改元。呂拠は捕らえられた。十一月、綝は大将軍・仮節・永康侯となる。孫憲は王惇と共に綝を殺そうとするが発覚し、綝は惇を殺し憲に自殺を迫った。十二月、刁玄を蜀へ派遣して国内の変事を告げた。
- 太平二年(257年)二月、大雨・雷電・大雪。長沙東部を湘東郡、西部を衡陽郡、会稽東部を臨海郡、豫章東部を臨川郡とした。夏四月、亮は正殿に臨み大赦、親政を始めた。孫綝の上奏は多く難詰され、また少年3千余を選抜して軍を組織した。亮は「この軍と共に成長したい」と述べた。
- 五月、魏の諸葛誕が淮南の兵で寿春城に籠り呉に投降を申し出て子の諸葛靚らを人質に送る。六月、文欽・唐咨・全端らに3万を与え救援。朱異も夏口から救援に向かうが、夏口督孫壹は魏に亡命。秋七月、綝が救援に向かい、朱異を前部督として丁奉らと5万で包囲を解こうとした。八月、会稽南部・鄱陽・新都で反乱、丁密・鄭冑・鍾離牧が討伐。朱異が糧食不足で撤退すると綝は激怒し、九月、朱異を殺害。十一月、全緒の子禕・儀が母と魏へ亡命。十二月、全端・全懌らが寿春から司馬文王(司馬昭)に降った。
- 太平三年(258年)正月、諸葛誕が文欽を殺害。三月、司馬文王が寿春を陥落させ誕は戦死、将吏は降伏。秋七月、故斉王孫奮を章安侯に封じた。詔で州郡に宮材の伐採を命じたが、8月から40余日雨が降らなかった。亮は孫綝の専横に対し、太常全尚・将軍劉丞と誅殺を謀るが、九月、綝は先手を打って全尚を捕らえ、弟の孫恩に劉丞を殺させ、大臣を召集して亮を廃し会稽王に落とした。時に亮16歳。