三國志卷四十七 吳主傳第二 孫權(仲謀)

孫權(字は仲謀、?–252年、諡は大皇帝)。孫堅の子で孫策の弟。兄策の急死により家督を継ぎ、赤壁の戦いで曹操を破って江東の基盤を固めた。荊州を巡り劉備・関羽と対立と和睦を繰り返し、関羽を討って荊州を平定した。魏より呉王に封じられたのち自ら皇帝を称して呉を建国し、三国鼎立の一角をなした。晩年は太子廃立をめぐる混乱(二宮の乱)を招き、崩御した。

年表(17件)

出自と生い立ち

  • 字は仲謀。兄孫策が諸郡を平定した頃、権は15歳で陽羨長となった。
  • 性度は広く朗らかで、仁にして決断力に富み、任侠を好み士を養い、若くして父兄に劣らぬ名声を得た。策の謀議に加わるたび、策は「自分は権に及ばぬ」と評した。策は賓客を集めるたびに「この者たちは、いずれお前の将となる」と権に語った。
  • 郡に孝廉、州に茂才として挙げられ、奉義校尉となる。使者劉琬は「孫氏兄弟は皆才は秀でるが長命でない、ただ仲弟(権)は骨相非凡で最も長寿の相がある」と評した。

建安四年(199年)― 孫策の急死と家督相続

  • 策に従い廬江太守劉勳を征伐、これを破り黄祖を沙羨に討った。
  • 建安五年(200年)、策が死去、事は権に託されたが、権は哭泣が止まらなかった。長史張昭は「今は喪に服す時ではない」と説き、喪服を脱がせて権を馬に乗せ軍を巡らせた。
  • 当時支配下は会稽・呉郡・丹楊・豫章・廬陵の5郡に過ぎず、険阻な地はなお服さず、天下の英傑や寄寓の士は去就未定で君臣の固めもなかった。張昭・周瑜らが権を盟主として支えることを決め、諸将これに服した。
  • 曹操は権を討虜将軍・領会稽太守として上表し、呉に駐屯させた。張昭を師傅の礼で遇し、周瑜・程普・呂範らを将帥とし、魯粛・諸葛瑾らを賓客として迎えた。諸将を分けて山越を鎮撫させた。
  • 廬江太守李術は孫策没後、権に服さず亡命者を多く受け入れたため、権は曹操へ事情を告げてこれを攻め滅ぼした。

建安七年(202年)

  • 権の母呉氏が死去した。

建安八年(203年)

  • 権は西進して黄祖を討ち舟軍を破ったが、城は落とせず、また山賊が動いたため撤退。豫章を経て呂範に鄱陽を、程普に楽安を平定させた。太史慈は海昏を統括し、韓当・周泰・呂蒙らは要県の令長となった。

建安九年(204年)

  • 弟の丹楊太守孫翊が側近に殺害され、従兄の孫瑜が後任となった。
  • この年、大会の席で是非を論じたことを謀反の疑いとされた沈友が誅殺された。享年29。

建安十年(205年)

  • 賀斉に上饒を討たせ、建平県を新設した。

建安十二年(207年)

  • 西進し黄祖を討ち、その人民を虜として帰還した。

建安十三年(208年)― 赤壁の戦い

  • 春、再び黄祖を征す。都尉呂蒙が前鋒を破り、淩統・董襲らが猛攻して城を落とした。黄祖は逃走するも騎士馮則に討たれ、男女数万を虜とした。
  • 賀斉に黟・歙を討たせ、歙を分けて始新・新定(のち遂安と改称)・犂陽・休陽(のち海寧と改称)を置き、6県で新都郡とした。
  • 荊州牧劉表が死去。魯粛が弔問を名目に情勢を探る。劉表の子劉琮は曹操に降伏、劉備は南へ向かい魯粛と会見、権の意を伝えられて成敗を説かれた。備は夏口に進み諸葛亮を権のもとに遣わし、権は周瑜・程普らを派遣した。
  • 曹操が新たに劉表の兵を得て勢い盛んで、群臣の多くが曹操への恭順を勧める中、周瑜・魯粛のみが対抗論を主張し、権もこれに同調した。
  • 周瑜・程普を左右督とし各1万を率いて劉備軍と合流、赤壁で曹操軍を大破。曹操は残余の船を焼いて撤退、兵は飢えと疫病で大半が死んだ。劉備・周瑜らは南郡まで追撃した。
  • 曹操は江陵に曹仁・徐晃を残し、樂進に襄陽を守らせて北へ帰還した。甘寧が夷陵で曹仁勢に包囲されると、呂蒙の計により淩統を残し半数で救援して勝利した。
  • 権は自ら合肥を包囲し、張昭に九江の当塗を攻めさせたが不利で、月余攻めても落ちなかった。曹操が荊州から張喜を派遣すると権は撤退した。

建安十四年(209年)

  • 周瑜と曹仁は1年余り対峙し多大な死傷を出し、曹仁は城を捨てて逃走した。権は周瑜を南郡太守とした。劉備は権に上表して車騎将軍・領徐州牧とし、備自身は荊州牧として公安に駐屯した。

建安十五年(210年)

  • 豫章を分けて鄱陽郡、長沙を分けて漢昌郡とした。魯粛を太守とし陸口に駐屯させた。

建安十六年(211年)― 建業遷都

  • 権は治所を秣陵に移した。翌年、石頭城を築いて秣陵を建業と改称。曹操来襲に備え濡須塢を築いた。

建安十八年(213年)― 濡須の対峙

  • 正月、曹操が濡須を攻め、権と月余対峙した。曹操は権の軍の整然さを見て嘆じ、撤退した。
  • 曹操は江辺の諸郡が権に奪われるのを恐れて内地への移住を命じたが、民は動揺し、廬江・九江・蘄春・広陵から10万余戸が長江を東に渡り、江西は空になって合肥以南は皖城のみが残った。

建安十九年(214年)― 荊州分割と関羽の対峙

  • 五月、権は皖城を征し、閏月に陥落。廬江太守朱光・参軍董和や男女数万を虜とした。
  • この年、劉備は蜀を平定した。権は諸葛瑾を通じ荊州諸郡の返還を求めたが、備は「涼州平定後に荊州を返す」と拒否。備が任命した南三郡の長吏を関羽が追放したこともあり、権は激怒して呂蒙に鮮於丹・徐忠・孫規ら2万を与え長沙・零陵・桂陽の3郡を奪わせ、魯粛には1万で巴丘(今の巴陵)に駐屯させて関羽に備えた。
  • 呂蒙が長沙・桂陽を服させ、零陵太守郝普のみが抵抗。劉備が公安に至り関羽に3万で益陽へ向かわせると、権は呂蒙らを召還して魯粛を助けさせた。呂蒙は郝普を降し3郡を制圧、その後孫皎・潘璋・魯粛と合流し益陽で関羽と対峙した。
  • 開戦前、曹操が漢中に侵入したため劉備は益州を失うことを恐れて和睦を申し入れ、権は諸葛瑾を通じて応じた。荊州は長沙・江夏・桂陽以東を権、南郡・零陵・武陵以西を備の領有とし分割した。
  • 権は陸口から合肥へ転じ包囲するが落とせず撤退。撤退中、津の北で魏将張遼の奇襲を受け、淩統らが死をもって権を守り、権は駿馬で津橋を飛び越えて脱出した。

建安二十一年(216年)

  • 冬、曹操が居巣に駐屯し濡須を攻めた。

建安二十二年(217年)

  • 春、権は都尉徐詳を曹操のもとへ遣わして降を請い、曹操も応じて和親(婚姻)を約した。

建安二十三年(218年)

  • 十月、権は呉に赴く途中、庱亭で自ら馬に乗って虎を射た。虎に馬を傷つけられるも双戟で応戦し、従者張世が戈で仕留めた。

建安二十四年(219年)― 関羽討伐・荊州平定

  • 関羽が曹仁を襄陽に包囲し、曹操は于禁を救援に送ったが、漢水の増水により関羽は于禁ら3万を生け捕り江陵へ送った(樊城のみ落ちなかった)。
  • 権は内心関羽を憚りつつ功を欲し、曹操に関羽討伐を申し出た。曹操は関羽と権を戦わせようと権の書簡を関羽陣営に流させたが、関羽は動けなかった。
  • 閏月、権は関羽を討ち、呂蒙が公安を襲い将軍士仁を捕らえた。呂蒙は南郡に至り太守糜芳を降し江陵を制圧、于禁の捕虜も解放した。
  • 陸遜は別に宜都を取り秭歸・枝江・夷道を得て夷陵に駐屯、峡口を守り蜀に備えた。
  • 関羽は当陽に退き麦城に籠るが、権の誘いに偽って降を装い脱走。朱然・潘璋に退路を断たれ、十二月、潘璋配下の司馬馬忠が章郷で関羽・子の平・都督趙累らを捕らえて処刑し、荊州が平定された。
  • この年疫病が流行し、荊州の民の租税を免除した。曹操は権を驃騎将軍・仮節領荊州牧・南昌侯に封じた。権は校尉梁寓を漢の朝廷に遣わし貢を奉じた。

建安二十五年(220年)

  • 正月、曹操が死去。太子曹丕が丞相魏王となり延康と改元した。秋、魏の梅敷の使者張儉が撫納を求め、南陽の陰・酇・築陽・山都・中廬5県の民5千家が帰順した。冬、魏の嗣王が帝位につき黄初と改元した。

黄初二年(221年)― 呉王への冊封

  • 四月、劉備が蜀で皇帝を称した。
  • 権は公安から鄂に都を移して武昌と改名し、武昌・下雉・尋陽・陽新・柴桑・沙羨の6県で武昌郡とした。五月、建業に甘露が降る。八月、武昌に城壁を築き、諸将に武備を怠らぬよう訓令した。
  • 魏文帝即位後、権は藩を称し于禁らを帰した。十一月、魏帝は策命し権を呉王に封じ、九錫(大輅・戎輅・玄牡二駟、袞冕の服、軒縣の楽、朱戸、納陛、虎賁百人、鈇鉞、彤弓矢・玈弓矢、秬鬯・圭瓚など)を賜った。
  • この年、劉備が武陵蛮夷を誘って呉を攻め、巫山・秭歸に至り諸県・五渓の民が蜀に呼応して反乱した。権は陸遜を督とし朱然・潘璋らを率いてこれに抗させた。
  • 都尉趙咨を魏に使者として送った。趙咨は権を「聡明仁智、雄略の主」と評し、その根拠を挙げて魏文帝を感心させた。
  • 権は太子登の魏への封を辞退し、西曹掾沈珩を遣わして謝辞と方物を送った。沈珩は魏文帝との問答に機敏に応じ、帰国後は魏の劉曄の奸計を警戒すべきと進言し、農桑と軍備の充実を献策した。
  • 魏文帝が孔雀・翡翠など珍物を求めた際、群臣は非礼として拒否を勧めたが、権は「西北で事を構えている今、民こそ惜しいのであり瓦石同然の珍物を惜しむ理由はない」として全て与えた。

黄武元年(222年)― 夷陵の戦い

  • 正月、陸遜配下の宋謙らが劉備軍の5屯を破り、その将を斬った。三月、鄱陽に黄龍出現の報。
  • 蜀軍は険地に前後50余営を分けて構えたが、陸遜は情況に応じて対応し、正月から閏月にかけて大破した。斬首・投降数万人、劉備はかろうじて逃走した。
  • 権は表向き魏に事えつつも本心は服さず、魏が侍中辛毗・尚書桓階を遣わし盟誓と人質(太子)を求めたが権は拒否した。
  • 秋九月、魏は曹休・張遼・臧霸に洞口を、曹仁に濡須を、曹眞・夏侯尚・張郃・徐晃に南郡を攻めさせた。権は呂範らに5軍を督させ舟軍で対抗、諸葛瑾・潘璋・楊粲は南郡を救援、朱桓は濡須都督として曹仁に対抗した。
  • 揚州・越の蛮夷が未平定で内乱の恐れもあり、権は卑辞を上表して「罪あれば土地民を奉還し交州に亡命したい」と述べた。文帝は長文の返書で権の変節を厳しく批判した。
  • 冬十一月、大風で呂範軍の兵数千が溺死、残兵は江南へ撤退した。曹休は臧霸に軽船500・敢死の兵1万で徐陵を襲わせ数千人を殺略したが、全琮・徐盛が追撃して魏将尹盧を斬り数百を討ち取った。
  • 十二月、権は太中大夫鄭泉を白帝の劉備のもとへ遣わし修好を再開した。
  • この年、夷陵を西陵と改称した。

黄武二年(223年)

  • 正月、曹眞が江陵中州に駐屯。同月、江夏山に築城。暦を改め『乾象暦』を用いた。
  • 三月、曹仁配下の常彫らが油船で濡須中州を渡り朱桓を攻めるが、朱桓が防ぎ厳圭らが撃破し、魏軍は撤退した。
  • 夏四月、群臣が権に帝号を勧めるが権は辞退した。劉備が白帝で死去、権は馮熙を遣わし弔問した。
  • 五月、曲阿に甘露が降る。戲口守将晋宗が将王直を殺して魏に降り蘄春太守となり辺境を侵したが、六月、賀斉・糜芳・劉邵らが蘄春を襲い晋宗を生け捕った。
  • 冬十一月、蜀の使者鄧芝が来聘し、以後定例の使節往来となった。

黄武三年(224年)

  • 夏、輔義中郎将張温を蜀へ遣わした。秋八月、死罪を赦免。
  • 九月、魏文帝が広陵に出て長江を望み「彼にも人物あり、攻略はできぬ」と撤退した。
  • 権は趙達に占わせ「曹丕は退くが呉も庚子の年(58年後)に衰える」との予言を得るが「今日の憂いに及ばず、子孫の事」と応じた。蜀の鄧芝が再度来聘し、盟を結び直した。

黄武四年(225年)

  • 夏五月、丞相孫邵が死去。
  • 六月、太常顧雍を丞相とした。
  • 冬十二月、鄱陽の賊彭綺が挙兵し、諸県を陥落させて数万の衆を集めた。この年、地震が連発した。

黄武五年(226年)

  • 春、令を発し、長年の軍事で民が疲弊しているため農政を寛かにする旨を示した。陸遜の建議に応じ将士に田畑を増やさせ、権自身も親耕した。
  • 秋七月、魏文帝崩御を聞き江夏郡・石陽を囲むが落とせず撤退。蒼梧に鳳凰出現の報。
  • 三郡の悪地10県を分けて東安郡を新設し、全琮を太守として山越を討伐平定させた。
  • 冬十月、陸遜が寛政・刑罰緩和・賦役軽減を進言、権は返書で「近臣の諫言は歓迎するが諂いは容れぬ」と応じ、有司に法令の見直しを命じた。

黄武六年(227年)

  • 正月、諸将が彭綺を捕らえた。閏月、韓当の子韓綜がその軍を率い魏に降った。

黄武七年(228年)― 石亭の戦い

  • 三月、子の孫慮を建昌侯に封じ東安郡を廃した。夏五月、鄱陽太守周魴が偽って魏に降ると見せかけ魏将曹休を誘い込んだ。
  • 秋八月、権は皖口に至り陸遜に諸将を督させ石亭で曹休を大破。大司馬呂範が死去した。同年、合浦を珠官郡と改称した。
  • 将軍翟丹が魏に叛いたため、権は「重罪三つ重ねてはじめて議す」との令を下し諸将の動揺を鎮めた。

黄龍元年(229年)― 皇帝即位

  • 春、公卿百司が権に帝号を勧め、四月、夏口・武昌に黄龍・鳳凰出現の報。丙申、南郊で即位した。
  • 大赦。父孫堅を武烈皇帝、母呉氏を武烈皇后、兄孫策を長沙桓王と追尊。呉王太子登を皇太子とした。将吏に爵位・恩賞を加えた。
  • 五月、使者を遼東へ遣わした。六月、蜀の陳震が権の即位を慶賀、天下を分割する盟約(豫・青・徐・幽を呉、兗・冀・并・涼を蜀、司州は函谷関を境)を結んだ。盟文は董卓・曹操以来の乱を非難し、呉蜀が力を合わせ魏を討つことを誓う内容であった。
  • 秋九月、権は建業に遷都し、武昌には上大将軍陸遜を残して太子登を輔佐させ軍事を統括させた。

黄龍二年(230年)

  • 正月、魏が合肥新城を築いた。都講祭酒を置き諸子に学問を教えさせた。
  • 将軍衞温・諸葛直に甲士1万を与え夷洲・亶洲を捜索させたが、夷洲の民数千人を得るに留まった。

黄龍三年(231年)

  • 春二月、太常潘濬が5万を率い武陵蛮夷を討伐した。衞温・諸葛直は詔に背き成果なく処刑された。
  • 夏、野蚕の繭(卵大)や由拳の野稲自生などの瑞祥、由拳を禾興県と改称した。
  • 中郎将孫布が偽って魏将王淩を誘うが、権が阜陵に置いた伏兵に王淩が気づき逃走した。
  • 十二月、大赦、翌年を「嘉禾元年」と改めた。

嘉禾元年(232年)

  • 正月、建昌侯孫慮が死去。三月、将軍周賀・校尉裴潜を海路遼東へ遣わしたが、秋九月、魏将田豫の迎撃で周賀は成山で戦死した。
  • 冬十月、魏の遼東太守公孫淵が校尉宿舒・郎中令孫綜を送り呉に臣従、貂・馬を献上した。権は大いに喜び淵に爵位を加えた。
  • 郊祀を巡る議論が起こり、群臣は瑞祥を根拠に郊祀を勧めたが、権は「郊祀は土の中心で行うべきで今の地には該当しない」と述べ、匡衡の議論を「俗儒の説」として退けた。

嘉禾二年(233年)― 公孫淵の裏切り

  • 三月、宿舒・孫綜を帰し、太常張弥・執金吾許晏・将軍賀達らに1万の兵と九錫の品を持たせ公孫淵に授けに遣わした。
  • 丞相顧雍以下群臣は淵を信用できぬとして諫めたが、権は聞かなかった。結果、淵は張弥らを斬り首を魏へ送り、兵資を没収した。権は激怒して自ら親征しようとしたが、尚書僕射薛綜らが諌めて止まった。
  • 同年、権は合肥新城に向かい、全琮に六安を攻めさせたが不克で撤退した。
  • 遼東に赴いた張弥・許晏らの部下(秦旦・張群・杜德・黄疆ら)が公孫淵の裏切りに遭い、玄菟郡に幽閉されたが、脱走・逃避行の末、高句麗に至り援助を得て帰還した。

嘉禾三年(234年)

  • 正月、詔で軍役による民困窮を慰撫し租税免除を命じた。夏五月、陸遜・諸葛瑾らを江夏・沔口に、孫韶・張承らを広陵・淮陽に配し、権自ら合肥新城を包囲した。
  • 蜀の諸葛亮が武功に出兵していたため魏の遠征はないと見ていたが、魏明帝は司馬懿の援護に兵を送り自ら壽春へ出撃、権は撤退し孫韶も撤兵した。
  • 秋八月、諸葛恪を丹楊太守とし山越を討たせた。九月朔、霜害で穀物損失。冬十一月、潘濬が武陵蛮夷を平定し武昌に帰還。曲阿を雲陽、丹徒を武進と改称した。廬陵の賊李桓・羅厲らが乱を起こした。

嘉禾四年(235年)

  • 夏、呂岱に李桓らを討たせた。秋七月、雹害。魏が馬と珠璣・翡翠・瑇瑁の交換を求め、権は「不用の品で馬が得られるなら」と容認した。

嘉禾五年(236年)

  • 春、大銭(一当五百)を鋳造し、民に銅を供出させ盗鋳を禁ずる法を設けた。二月、武昌に甘露、輔呉将軍張昭が死去。吾粲が李桓を、唐咨が羅厲を捕らえた。十月から翌夏まで日照り。冬十月、彗星出現。鄱陽の賊彭旦らが乱を起こした。

嘉禾六年(237年)― 服喪の議論

  • 正月、詔を発し、三年の喪の礼と時勢の緊要(官吏の職務優先)との調和を論じ、群僚に議論させた。
  • 顧譚は奔喪禁令を軽くも重くもすべきでないとして代替措置を提案、将軍胡綜は「忠と孝は両立せぬ、軍国の秩序維持のため厳罰が必要」と主張し、丞相顧雍は大辟(死刑)を奏して採用された。
  • 後、呉県令孟宗が母の喪に服し武昌で自首、陸遜の弁護により権は一等減じたが、以後この先例は認めず制度は廃止された。
  • 二月、陸遜が彭旦らを討伐、平定。冬十月、衞将軍全琮が六安を襲うが不克。諸葛恪は山越平定を終え廬江に北進駐屯した。

赤烏元年(238年)

  • 春、当千大銭を鋳造。夏、呂岱が廬陵の賊を討ち陸口に帰還。秋八月、武昌に麒麟出現の報、有司が瑞祥として改元を提案。権は「殿前に赤烏が集まったのを親しく見た」として「赤烏」を年号とした。
  • 歩夫人が死去、皇后に追贈された。
  • 権は校事呂壱を信任していたが、呂壱は苛酷な法運用で害悪をなし、太子登の諫言も容れられなかった。呂壱の姦罪が発覚し誅殺されると、権は自らの過ちを認め、中書郎袁禮を諸将のもとに送り謝罪と施政の意見聴取を行わせた。帰還した袁禮の報告により、権は諸葛瑾・歩騭・朱然・呂岱らに詔書を送り、彼らが遠慮して意見を言わなかったことを嘆き、忠言を求める長文の訓示を発した。

赤烏二年(239年)

  • 正月、詔で郎吏選抜の厳格化(四科による選考)を命じた。三月、羊衜・鄭冑・孫怡を遼東へ遣わし、魏の張持・高慮らを撃ち男女を虜とした。
  • 零陵に甘露。夏五月、沙羨に築城。冬十月、蒋秘が南方の夷賊を討伐する中、部下の都督廖式が反乱を起こし臨賀太守嚴綱らを殺害、自称平南将軍として零陵・桂陽・交州蒼梧・鬱林を攻めた。呂岱・唐咨が討伐し、1年余りで平定した。

赤烏三年(240年)

  • 正月、詔で徴役・水旱害による民の困窮を憂い、時期を選ばぬ徴役の禁止を命じた。夏四月、大赦、各郡県に城郭修築・望楼建設・防備強化を命じた。冬十一月、飢饉のため倉廩を開き貧民を賑恤した。

赤烏四年(241年)

  • 正月、大雪(平地3尺)で鳥獣が多数死んだ。夏四月、全琮が淮南を攻略、芍陂を決壊させ安城の倉庫を焼き民を捕獲。諸葛恪は六安を攻めた。全琮は魏将王淩と芍陂で戦い秦晃ら十余人が戦死。朱然は樊を包囲、諸葛瑾は柤中を奪取した。
  • 五月、太子孫登が死去。魏の司馬懿が樊を救援、六月呉軍撤退。閏月、大将軍諸葛瑾が死去。秋八月、陸遜が邾に築城した。

赤烏五年(242年)

  • 正月、子の孫和を太子に立て大赦。禾興を嘉興と改称。皇后・諸王擁立の上奏に対し権は「今なお天下未定で功臣・貧民の処遇が先」として辞退した。
  • 三月、海塩県に黄龍出現。夏四月、御用献上物を禁じ太官の膳を減らした。秋七月、聶友・陸凱に3万で珠崖・儋耳を討たせた。この年大疫、再び皇后・諸王擁立の上奏。八月、子の孫覇を魯王に立てた(後の二宮の乱の端緒)。

赤烏六年(243年)

  • 正月、新都に白虎出現。諸葛恪が六安を征し魏将謝順の陣営を破り民を得た。冬十一月、丞相顧雍が死去。十二月、扶南王范旃が使者を送り楽人と方物を献上した。同年、司馬懿が舒に進軍、諸葛恪は皖から柴桑に移駐した。

赤烏七年(244年)

  • 正月、上大将軍陸遜を丞相とした。秋、宛陵に嘉禾。
  • 歩騭・朱然らが「蜀は盟約を破り魏と通じる恐れがある」と上奏したが、権は蜀の実情を分析して疑念を退け、「人の言は信じ難いが、諸君のために家を賭けて保証する」と述べた。結果、蜀に異心はなく権の判断通りだった。

赤烏八年(245年)

  • 正月、丞相陸遜が死去。夏、雷が宮門柱・南津大橋の欄干を撃つ。茶陵県で洪水、200余家が流された。秋七月、将軍馬茂らの謀反が発覚し三族を誅した。八月、大赦。校尉陳勲に屯田兵・作業兵3万を与え句容から雲陽西城まで運河を掘らせ市場・倉庫を整備させた。

赤烏九年(246年)

  • 正月、車騎将軍朱然が魏の柤中を征し千余を斬獲。夏四月、武昌に甘露。秋九月、驃騎歩騭を丞相、車騎朱然を左大司馬、衞将軍全琮を右大司馬、鎮南呂岱を上大将軍、威北将軍諸葛恪を大将軍とした。

赤烏十年(247年)

  • 正月、右大司馬全琮が死去。
  • 二月、権は南宮に移る。三月、太初宮を改築(州郡が労役に協力)。
  • 夏五月、丞相歩騭が死去。冬十月、死罪を赦免。

赤烏十一年(248年)

  • 正月、朱然が江陵に築城。二月、地震再発。三月、宮殿完成。夏四月、雹、雲陽に黄龍出現。五月、鄱陽に白虎(瑞獣とされる)出現の報。

赤烏十二年(249年)

  • 三月、左大司馬朱然が死去。四月、烏がカササギをくわえ館に落とす怪異、驃騎将軍朱据が丞相を代行し祭祀。

赤烏十三年(250年)― 二宮の乱

  • 夏五月、日食、火星(熒惑)が南斗に入る。秋七月、北斗魁の星犯、八月丹陽・句容・故鄣・寧国で山崩れと洪水、詔で租税免除と種食貸与を命じた。
  • 太子孫和を廃して故鄣に幽閉し、魯王孫覇に死を賜った(二宮の乱の帰結)。
  • 冬十月、魏将文欽が偽って朱異を誘うが呂拠の援軍到着で欽は動けなかった。十一月、子の孫亮を太子に立てた。10万の軍で堂邑塗塘を築き北方の水路を塞いだ。
  • 十二月、魏の大将軍王昶が南郡を、荊州刺史王基が西陵を攻めるが戴烈・陸凱の応戦で撤退した。この年、「神人」が改元・立后を告げたとの奇瑞があった。

太元元年(251年)― 崩御前夜

  • 夏五月、皇后潘氏を立て大赦、改元。臨海郡羅陽県の「神」王表の逸話が伝わり、権が使者李崇を送り王表を迎え歓待し、水旱の予兆を占わせた。
  • 秋八月朔、大風で長江・海が氾濫、平地で8尺の深さ、呉の高陵の松柏が抜け、郡城の南門が飛ばされた。
  • 冬十一月、大赦。権は南郊祭祀の帰途に病臥した。十二月、大将軍諸葛恪を召還し太子太傅に任命。徭役・賦税を軽減する詔を発した。

太元二年(252年)― 崩御

  • 正月、廃太子孫和を南陽王として長沙に、子の孫奮を斉王として武昌に、子の孫休を琅邪王として虎林に住まわせた。二月、大赦、改元神鳳。皇后潘氏が死去。諸将吏が王表に幸福を求めるが王表は姿を消した。
  • 夏四月、権崩御、享年71、諡は大皇帝。秋七月、蔣陵に葬られた。

史論

  • 評曰(陳寿):孫権は身を屈し辱を忍んで人材を用い策を尊重し、勾践のごとき奇略と英雄の器量を備え、江表に一大勢力を築いて鼎立の業を成した。しかし猜疑心が強く殺戮を好む性向が晩年ますます甚だしく、讒言を信じて善行を絶ち、太子を廃して嗣子を失わせた。これが後嗣の衰退と亡国につながったと言えよう。
  • 裴松之注:権が無実の子(和)を廃したことは乱の兆しではあったが、真の亡国の原因は孫皓の暴虐にある。もし孫和の子孫が国を保っていれば孫皓は即位せず、呉は滅びなかったはずで、喪国の因は昏虐にあり廃嫡そのものにはない。