三國志卷四十六 呉書一 孫策

孫策(字は伯符、?–200年、享年26)、孫堅の長子。父の戦死後、袁術のもとで武功を挙げたのち独立し、江東の劉繇・厳白虎らを平定して会稽・丹楊など数郡を制圧、江東における孫氏政権の基礎を築いた。袁術の帝号僭称に際しては絶縁して朝廷に帰属、討逆将軍・呉侯に任じられたが、許貢の食客に襲われ受けた傷がもとで若くして死去、弟の孫権に後事を託した。

年表(3件)

出自と若年

  • 孫策は字を伯符という。孫堅の挙兵時、母と共に舒に移り住み、周瑜と親交を結んで士大夫を集め、江淮の人々が慕い寄った。孫堅が戦死すると曲阿に葬られ、孫策は江都に移った。

袁術のもとで

  • 徐州牧陶謙に忌避された孫策は、丹楊太守であった舅の呉景を頼って母を曲阿に移し、呂範・孫河と共に呉景の元に身を寄せ数百人を募った。興平元年(194年)、袁術に従うと袁術はその才を大いに認め、孫堅の旧部曲を返還した。
  • 太傅馬日磾が孫策を懐義校尉に推挙し、袁術配下の喬蕤・張勲も敬意を払った。袁術は「わが子が孫郎のようであれば死んでも思い残すことはない」と嘆じたという。
  • 袁術は当初孫策を九江太守にすると約したが陳紀を用い、廬江太守陸康への米三万斛の要求が拒まれると孫策に廬江攻略を命じ、孫策はこれを陥落させたが、袁術はまた別の者を太守に据えたため孫策は失望した。

独立して江東平定

  • 揚州刺史劉繇は孫策の一族の呉景・孫賁を丹楊から追い出しており、孫策は袁術に「舅の劉繇討伐を助けたい」と説き、殄寇将軍として兵千余・騎数十・賓客数百を得て出陣、歴陽に至る頃には五六千に膨れ上がった。
  • 長江を渡って各地を転戦し、劉繇の陣営や彭城相薛礼・下邳相笮融らを破った。軍令は厳正で百姓に歓迎された。会稽郡へ進み、厳白虎ら群盗も次々に平定し、会稽太守を自ら領し、呉景を丹楊太守、孫賁を豫章太守、孫輔を廬陵太守、朱治を呉郡太守に配し、張昭・張紘・秦松・陳端らを謀主とした。

袁術との絶縁と朝廷への帰属

  • 袁術が帝号を僭称すると、孫策は書を送って絶縁した(張紘の起草とされる書簡には、董卓討伐の義兵の趣旨から外れる袁術の僭号を九つの理由を挙げて諫める内容が記される)。
  • 曹操は孫策を討逆将軍・呉侯に任じた。漢朝は改めて孫策を騎都尉・烏程侯・会稽太守に任じ、呂布に袁術討伐の功で温侯を加えていたが、孫策は将軍号を望み、明漢将軍を承制で与えられた。海西に駐屯していた陳瑀が孫策を襲おうとしたが発覚し、呂範・徐逸が撃破した。建安三年(198年)、討逆将軍・呉侯に改めて任じられた。

劉勲・黄祖との戦い

  • 袁術の死後、その旧臣楊弘・張勲らが孫策に帰属しようとしたが廬江太守劉勲がこれを奪った。孫策は劉勲と偽って和睦し、劉勲が豫章の上繚を攻めに出た隙に廬江を急襲して陥落させ、劉勲軍は降伏、劉勲自身は数百騎で曹操の元へ逃げた。
  • 孫策はさらに西へ黄祖を討ち、彭沢で劉勲の残党を破り、皖城を落として袁術の遺した工人・楽人・部曲三万余人を得た。夏口で黄祖と戦い大破し、黄祖の妻子を捕らえ、二万余級を斬り一万余人を水に溺れさせ、船六千余艘を得た。
  • 曹操は江南平定を進める孫策に手を焼き、これを牽制する一方、弟の娘を孫策の弟孫匡に嫁がせるなど懐柔を図り、孫策の弟の孫権・孫翊を礼遇し、揚州刺史厳象に孫権を茂才に推挙させた。

許貢殺害と暗殺

  • 建安五年(200年)、曹操と袁紹が官渡で対峙する中、孫策は密かに許を襲い天子を迎えようと図った。
  • 隠士高岱を招いた際、周囲の讒言により孫策は高岱を怒らせるよう仕組まれ、これを疑って投獄し、多くの人が助命を嘆願する様子に人心を集める者として警戒し、ついに殺した。
  • 道士于吉が人心を集めていることを警戒し、母の諫めにもかかわらず「妖言で衆心を惑わし君臣の礼を乱す者だ」として処刑した。
  • かつて孫策に誅殺された前呉郡太守許貢の食客が、主君の仇を討とうと狩りに出た孫策を襲い、頬を射て傷を負わせた。
  • 傷が重くなった孫策は張昭らを呼び「中原はまさに乱れているが、呉越の衆と三江の険をもってすれば形勢を見極められる。諸君は弟をよく助けてほしい」と告げ、孫権に印綬を佩びさせ「江東の衆を挙げて天下と覇を競うことはお前が優れているが、賢を挙げ能を任せて江東を保つことは私がお前に勝る」と言い残し、その夜、二十六歳で死去した。

死後

  • 孫権が帝位に即くと、孫策には長沙桓王の諡が贈られ、子の孫紹は呉侯(後に上虞侯に改封)となった。孫紹の死後、子の孫奉が嗣いだが、孫皓の代に孫奉が擁立されるとの流言により誅殺された。

史論

  • 評に曰く、孫堅は勇猛剛毅で微賤の身から身を起こし、董卓討伐を主導し、山陵の破壊を防いだ忠壮の士であった。孫策は英気に優れ武勇は当代随一で、機を見て事を成す才があったが、二人とも軽率さゆえに命を落とした。江東割拠の基礎を築いたのは孫策の功であるのに、孫権が尊号に即いた後もその子は侯爵に留められたのは道義において不十分ではないか、と評される。
  • 孫盛の論評:孫氏兄弟は共に卓越した見識を持ち、基業を開いたのは孫策の功であるのに、臨終に権に位を委ねたことは、私情としては理解できるが、名分を正しくすることは国家の大本であり、疑いを断つ良策である。魯の隠公や宋の宣公の例を引き、小さな善意にとらわれて後嗣の禍根を残したことを指摘し、名分を厳格にすることこそ長く国を保つ道であったとし、陳寿の評はこの点を十分に論じていないと批判する。