三國志卷四十五 蜀書十五 張翼

張翼(字は伯恭)、犍為武陽の人。後漢の名臣張浩・張綱の子孫。蜀漢で庲降都督・征西大将軍などを歴任し、姜維の度重なる北伐には慎重論を唱え続けた。蜀の滅亡に際し姜維とともに剣閣を守るが鍾会に降伏、のち乱兵に殺害された。

年表(5件)

出自(高祖父司空張浩・曾祖父広陵太守張綱の事績)

  • 張翼は字を伯恭といい、犍為郡武陽の人。高祖父の司空張浩、曾祖父の広陵太守張綱は共に名声があった。
  • 張浩は律学・春秋を修め、大将軍鄧騭に召され尚書僕射から彭城相を経て廷尉となった。延光三年、安帝が太子廃立を議した際、張浩は太常桓焉・太僕来歴と共に反対した。順帝の初め司空を拝命し、八十三歳で没した。
  • 張綱は三公の子でありながら経明行修で孝廉に挙げられ、侍御史となった。漢安元年、光禄大夫として天下の郡国の貪廉を巡察する八使の一人に選ばれ(世に「八雋」と称された)、大将軍梁冀の専横に対し独り洛陽都亭に車輪を埋めて動かず「豺狼が道にいるのに、なぜ狐狸を問うのか」と述べ、梁冀・河南尹梁不疑の罪十五条を弾劾する上書をして京師を震撼させた。梁冀はこれを深く恨み、広陵の賊張嬰らの反乱を口実に張綱を広陵太守に任じさせ陥れようとしたが、張綱は単騎で赴任し、張嬰の陣営に入って利害を説いて投降させ、南方を平定した。功績は梁冀に妨げられ封侯とならなかったが、天子はその功を惜しみ、三十六歳で病没すると張嬰らが喪に服し、祠を立てて祀った。

蜀漢での官歴

  • 劉備が益州を平定すると、張翼は書佐となった。建安末、孝廉に挙げられ江陽長・涪陵令を経て梓潼太守、さらに広漢・蜀郡太守を歴任した。建興九年(231年)、庲降都督・綏南中郎将となった。
  • 法を厳格に行い異民族の歓心を得られなかった。耆帥劉冑が反乱を起こすと張翼が討伐に向かったが、破る前に召還命令を受けた。部下は速やかに帰還すべきと進言したが、張翼は軍務を全うすべきとして交代者が来るまで統率を続け、後任の馬忠がその基盤を用いて劉冑を平定した。丞相諸葛亮はこれを称賛した。
  • 諸葛亮が武功に出陣した際、前軍都督・扶風太守となり、諸葛亮の死後は前領軍を拝命、劉冑討伐の功により関内侯を賜った。延熙元年(238年)、尚書に入り、督建威・仮節を経て都亭侯に進み、征西大将軍となった。

姜維の北伐への反対

  • 延熙十八年(255年)、衛将軍姜維と共に成都へ戻った。姜維が再度の出兵を議した際、張翼だけが朝廷で異を唱え、国が小さく民が疲弊しており武を濫用すべきでないと主張したが、姜維は聞き入れず張翼らを引き連れて出陣し、張翼を鎮南大将軍に進めた。
  • 姜維は狄道で魏の雍州刺史王経を大破し、王経の兵で洮水に死んだ者は万を数えたが、張翼は「ここで止めるべきで、これ以上進めば大功を損なう」と諫めた。姜維は大いに怒り「蛇に足を描くようなものだ」と述べ、なお狄道の王経を包囲したが陥落させられなかった。
  • これ以来、姜維は張翼と不和になったが、常に同行させた。景耀二年(259年)、左車騎将軍に遷り冀州刺史を領した。六年(263年)、姜維と共に剣閣にあり、鍾会に降伏して涪に赴いた。翌年正月、鍾会に従って成都に至ったが、乱兵に殺された。