三國志卷四十二 蜀書十二 郤正
出自と学問
- 郤正、字は令先、河南偃師の人。祖父の儉は霊帝末に益州刺史となり盗賊に殺された。天下大乱の中、父の揖は蜀に留まり、将軍孟達の都督となり達に従い魏に降り中書令史となった。正は本名纂。幼くして父を失い母は再嫁、孤独の中貧に安んじ学を好み書を博覧、二十歳で文を能くし秘書吏となり令史・郎を経て令に至った。栄利に淡白で文章を好み、司馬相如・王褒・揚雄・班固・傅毅・張衡・蔡邕らの遺文や当世の書論を、蜀にあるものは調べ尽くした。宮中で宦官黄皓と三十年隣り合ったが、皓に愛されも憎まれもせず官は六百石を出なかったため憂患を免れた。
『釈譏』
- 崔駰『達旨』に倣い『釈譏』という文を著した。ある者が「時と功が合ってこそ名は立つのに、なぜ引きこもるのか」と正を譏り、正はこれに答え、太古から漢に至る治乱の歴史、乱世に姦計を弄した者たちの末路、賢者が時流を避ける理由、当代の治世の徳を述べた上で、自らは高位でも財を蓄えず質素を守り、権力の中枢からは距離を置き、直言は好むが妄りに動かず、性に従い天を楽しみ恨みも悔いもないと述べ、古今の名人・隠者の故事を数多く引いて自らの生き方を弁じたものである。
魏への降伏文と晩年
- 景耀六年(263年)、後主は譙周の策により鄧艾に降伏を請う使者を出したが、その降伏文書は正が起草したものであった。翌年正月、鍾会が成都で反乱を起こし後主が洛陽へ東遷する際の混乱の中、蜀の大臣で従う者がいない中、正と殿中督の汝南張通のみが妻子を残し単身随行した。後主は正の助けで挙動に落ち度なく、正を知るのが遅かったことを嘆息し関内侯に叙した。泰始年間(265〜274年)、安陽令に任じ巴西太守に転じた。泰始八年(272年)の詔で「正は昔成都で顛沛しても義を守り忠節を尽くし、任用後も尽力し治績を挙げた、巴西太守とする」と称えられた。咸寧四年(278年)に没した。詩・論・賦などの著述は百篇に及んだ。
評價
評曰:杜微は身を修め隠静を保ち当世に役せず、夷斉・四皓の概があった。周羣は天文占いに徴があり、杜瓊は沈黙慎密、諸生の純たるものであった。許慈・孟光・来敏・李譔は博渉多聞、尹默は左氏に精しく、いずれも徳業では称されずとも一時の学士であった。譙周は詞理淵通で世の碩儒として董仲舒・揚雄の規があり、郤正は文辞燦爛で張衡・蔡邕の風があり、その行いも合わせて君子の取るべきものがある。二子とも晋での事績は少なく蜀での事績が多いため本篇に著した。張璠は「譙周が魏への降伏を説いたのは、劉禅の懦弱さと害意のなさを見越してのことで、もし忿肆な人物であれば謀もないまま矜り恥を忌み妄りに誅殺し一時の威を立てようとし、それがかえって夷滅の禍となったかもしれない」と評した。