三國志卷四十三 蜀書十三 黃權

出自と劉璋への諫言

  • 黃權、字は公衡、巴西閬中の人。若くして郡吏となり、州牧劉璋に主簿として召された。別駕張松が劉備を迎え張魯討伐を献策した際、権は「左将軍(劉備)は驍名があり、部曲として遇せば不満を招き、賓客として遇せば一国に二君となる、泰山のような安定を得ようとして主が累卵の危うさを負うことになりかねない、境を閉じ様子を見るべき」と諫めたが、璋は聞き入れず使者を送り、権は広漢長に左遷された。劉備が益州を襲取すると諸郡は次々靡いたが、権は城を堅守し、劉璋の降伏を待って初めて劉備に降った。劉備は権を偏将軍に任じた。徐衆は「権は忠諫と城の堅守により君に仕える礼を得た、武王が比干の墓に封じ商容の閭を表彰した故事に准えれば、将軍位は薄く忠義の高節を彰すには不十分だった」と評した。
  • 曹操が張魯を破り魯が巴中に逃れると、権は「漢中を失えば三巴も保てず蜀の股肱を割かれるに等しい」と進言、劉備は権を護軍として諸将を率い魯を迎えさせたが、魯はすでに南鄭に戻り曹操に降伏していた。ただし杜濩・樸胡を破り夏侯淵を討ち漢中を得たのはいずれも権の本謀によるものだった。

夷陵の敗戦と魏への降伏

  • 劉備が漢中王となり益州牧を兼ねると権は治中従事、劉備の称帝・東征呉の際は「呉軍は精強で水軍は順流で進みやすく退きにくい、自分を先鋒とし陛下は後方に控えるべき」と諫めたが聞き入れられず、権は鎮北将軍として長江北岸の軍を統率し魏軍に備え、劉備自身は江南にあった。呉の将軍陸議(陸遜)が包囲を断ち南軍が敗れると劉備は退却したが、権は道を断たれ帰還できず魏に降った。有司は権の妻子を収監するよう求めたが、劉備は「私が権に背いたのであり権が私に背いたのではない」として従来通り遇した。裴松之は、漢の武帝が虚偽の言により李陵の家を滅ぼしたのに対し、劉主が有司の求めを退け黄権の家を宥した対比を挙げ、両者の得失は隔絶していると評した。
  • 魏文帝が「君は逆を捨て順に就いたが陳平・韓信を慕うつもりか」と問うと、権は「私は劉主の厚遇を受けたが呉に降るわけにいかず蜀に帰る道もなく已むを得ず帰命した、敗軍の将として死を免れただけで古人を慕うには及ばない」と答え、文帝はこれを評価し鎮南将軍・育陽侯・侍中に任じ陪乗させた。蜀からの降人が権の妻子誅殺を伝えたが権はその情報の真偽を疑い喪を発さなかった。『漢魏春秋』によれば、文帝が発喪を命じた際、権は「私は劉備・諸葛亮と誠を推し合った仲、明らかに本志を知っている、疑わしい情報のまま動けない、後の確報を待ちたい」と答え、後に果たして虚報と判明した。劉備の死去の報が届いた際、魏の群臣は皆祝賀したが権のみ祝わなかった。文帝は権を試そうと使者を頻繁に送り驚かせようとしたが、官属侍従が皆震え上がる中、権のみ顔色を変えなかった。

魏における晩年

  • 後に益州刺史を領し河南に移住した。大将軍司馬懿は権を高く評価し「蜀にはあなたほどの人物が何人いるか」と問うと、権は「明公にこれほど見込んでいただけるとは思いませんでした」と応じた。司馬懿は諸葛亮への書で「黄公衡は快士であり、いつも座談で足下(亮)を称えて止まない」と述べた。景初三年(蜀の延熙二年、239年)、権は車騎将軍・儀同三司に昇進した。『蜀記』によれば、魏明帝が「天下鼎立の中、いずれを正統とすべきか」と問うと権は「天文をもって正とすべき、かつて熒惑が心宿に留まり文皇帝(曹丕)が崩じたが呉蜀の二主は無事だった、これがその徴である」と答えたという。翌年没し、諡は景侯。子の邕が嗣いだが邕に子なく絶えた。蜀に残った子の崇は尚書郎となり衛将軍諸葛瞻に従い鄧艾を防いだ。涪県に至り瞻が進軍を躊躇う間、崇は険を占拠すべきと繰り返し勧め涙を流すまでに至ったが瞻は聞かず、鄧艾が長駆すると瞻は綿竹で敗れ、崇は軍士を励まし決死の覚悟で臨陣し戦死した。