三國志卷四十二 蜀書十二 譙周

譙周、字は允南、巴西西充国の人。蜀の碩儒として諸葛亮に見出され、後主に度々倹約と祭祀護持を諫めた。『仇国論』で無謀な軍事行動を戒め、景耀6年、鄧艾の侵攻に際しては後主に魏への降伏を説き、蜀の滅亡に際して流血の惨事を避けさせた。晋に召されて洛陽に至り、泰始6年に没した。天文・讖緯にも通じ、後進の陳寿らに影響を与えた。

年表(7件)

出自と学風

  • 譙周、字は允南、巴西西充国の人。父の𡸫(字栄始)は『尚書』を治め諸経・図緯にも通じたが、州郡の招聘に応じず州の仮師友従事となった。周は幼くして父を失い母兄と同居、成長後は古を好み篤学、家貧で家業を顧みず典籍を誦読し寝食を忘れて楽しんだ。『六経』を極め書札に巧みで天文にも通じたがあまり意を用いず、諸子の文章にも深入りしなかった。身長八尺、素朴な容貌で誠実、機敏な弁論の才はないが内に聡敏さを秘めていた。

出仕と諫言

  • 建興年間(223〜237年)、丞相諸葛亮が益州牧を兼ねると周を勧学従事とした。亮に初めて会った時周囲が笑い、有司が笑った者を糾弾しようとしたが、亮は「私さえ堪えられぬのに左右は尚更だ」と咎めなかったという。亮が敵地で没した際、周は在宅で知らせを聞き直ちに赴いたが詔で行き来を禁じる中、周のみが速行で到達できた。大将軍蒋琬が刺史を兼ねると典学従事に転じ州の学者を統轄。後主が太子を立てると周は僕、次いで家令となった。当時後主が遊観・声楽を増やしたことに周は上疏して諫めた――王莽の乱後の群雄が徳の薄厚により盛衰した史例、光武帝が倹約と法度により民心を得て天下を得た経緯(銚期の諫言で外出を止めた例、寇恂に穎川の乱を任せた例)を引き、後主にも先帝への孝を尽くしつつ、宗廟の祭祀を怠らず楽官・後宮の増設を減じ子孫のため倹約の教えを残すよう求めた。
  • 中散大夫に転じ、なお太子に侍した。

仇国論

  • 当時軍旅がしばしば動員され民が疲弊し、周は尚書令陳祗と利害を論じ、退いて『仇国論』を著した。小国の忠臣「伏愚子」と大国の力を頼む「高賢卿」の対話形式で、周文王が民を養い少をもって多に勝った故事、勾践が衆を憐れみ弱をもって強を斃した故事を引き、性急な武力行使は民を疲弊させ瓦解を招くとし、時機と民力を見極めた上で動くべきと説く趣旨である。

光禄大夫としての晩年

  • 後に光禄大夫に遷り九列に亜ぐ地位となった。政事には関与せずとも儒者として礼遇され、大議には経典に基づき答え、後進の質問にも応じた。

魏への降伏を説く

  • 景耀六年(263年)冬、魏の大将軍鄧艾が江由を落とし進撃、蜀は防備が整わず、艾が陰平に入ると民は動揺し山野に逃げ制止できなかった。後主は群臣を集め対策を協議したが結論が出ず、呉への逃亡説、南中七郡への逃亡説が出る中、周は「他国に身を寄せて天子であり続けた例はなく、呉に入れば臣従するしかない。政治の理は同じで大が小を呑むもの、魏が呉を併せるのは必然、小国として二度臣従するより一度で済む方が良い。南への逃亡も早く計画すべきだが、今や大敵が迫り群小の心も頼れず、出発すれば予測不能な変事が起こりうる」と説いた。群臣が「艾が降伏を受け入れないのでは」と問うと、周は「呉はまだ帰順していないので艾は必ず受けるはず、受ければ礼遇せざるを得ない、もし陛下に領地を与えないなら私が自ら京都に赴き古の道理で争う」と述べ、衆はこれに従った。
  • 後主がなお南への逃亡を迷った際、周は再度上疏した――南方は服属浅く反乱を繰り返してきた地であり頼れば再叛の恐れがある一、北兵は蜀のみでなく南方も追撃してくる二、南に籠れば供給の負担で夷を疲弊させ速叛を招く三、光武帝が邯鄲を離れようとした際に邳肜が「民が父母を捨て千里も従うはずがない」と諫め従わなかった故事を引き今も同様だろう四、として南行は不利と説き、早期の降伏で爵土を得られると勧め、微子が殷を離れ武王に帰順した故事を引いて已むを得ぬ選択と論じた。
  • 結局は周の策に従い、劉氏は無事であった、これは周の謀である。孫綽は「譙周が後主に魏への降伏を説いたのは、天子でありながら乞い降るのは深い恥である、社稷のために死すべき時は死すべきで、先君(劉備)が魏の簒奪を正さず共に天を戴かなかった志を、父の代から罪を引き受け讎に仕える形にした、これを大居正の道とは言えない」と評した。孫盛はさらに厳しく「春秋の義では国君は社稷に死し卿大夫は位に死す、まして天子と称しながら人に辱められてよいものか、周が万乗の君に苟且の生を勧めたのは惑いである」とし、当時の情勢からしても蜀にはまだ羅憲の白帝の重兵、霍弋の夜郎の強卒があり、蜀の険阻な地勢を頼み舟楫で江州に拠り南中から徴兵し呉に援軍を乞えば姜維・廖化らの諸将も呉軍も呼応できたはずで、必ずしも亡国に至らなかったのではと論じた。

晋への出仕と晩年

  • 晋文王(司馬昭)は周の功を評価し陽城亭侯に封じた。周を招く詔が下ったが漢中に至って病のため進めなかった。咸熙二年(265年)夏、巴郡の文立が洛陽から蜀へ戻る途中周を訪ね、周は「典午忽兮、月酉沒兮」(典午は司馬、月酉は八月の意)と書いて示し、実際その年の八月に文王(司馬昭)が没した。文立、字は広休、少くして『毛詩』『三礼』を治め群書に通じ、刺史費禕に召され従事、尚書郎、大将軍東曹掾、尚書を歴任、蜀が魏に併合され梁州が建てられると別駕従事に挙げられ秀才に推挙された。晋の泰始二年(266年)、済陰太守、太子中庶子に任じられ、蜀の忠死者の子孫や諸葛亮・蒋琬・費禕の子孫の登用を上言し施行された。散騎常侍、衛尉を歴任し中朝でも賢雅と評され、咸寧末(280年頃)に没した。詩・章奏・賦・論・頌数十篇を著した。
  • 晋朝が成立すると詔で周の出仕を求め続け、周は病を押して洛陽に赴き泰始三年(267年)到着、病のため騎都尉を拝命するに留まり、功なくして封を受けたとして辞退を求めたが許されなかった。泰始五年(269年)、著者(陳寿)が本郡の中正となり周に別れを告げた際、周は「昔孔子は七十二、劉向・楊雄は七十一で没した、私も七十を過ぎ孔子の遺風を慕い劉向・楊雄と同じ道を歩みたいが、あと一、二年で長逝するだろう、もう会えまい」と語った。泰始六年(270年)秋、散騎常侍に任じられるも病篤く拝命できず、冬に没した。『晋陽秋』の詔には「甚だ悼む、朝服一具・衣一襲・銭十五万を賜う」とある。子の熙に周は「久しく病み朝見していない、国恩による朝服・衣物を身に着けず旧墓に葬るように、道が険しいので軽い棺を用意せよ」と遺言し、朝廷は衣服を返させ棺の費用のみを給した。著述に『法訓』『五経論』『古史考』など百余篇がある。益州刺史董榮は周の像を州学に描かせ、従事李通に頌を作らせた。

孫(子)譙秀(附)

  • 周には熙・賢・同の三子があり、少子の同は父の学風を継ぎ忠篤質素、孝廉に挙げられたが錫令・東宮洗馬の召にも応じなかった。周の長子熙の子の秀(字元彦)は、世の乱を予見して人事を絶ち、州郡の招聘や李雄・李驤・李寿らの招聘にも応じず、常に鹿皮の冠をつけ山中で耕作した。永和三年(347年)、安西将軍桓温が蜀を平定した際、秀を推挙する上表を行った――高尚の隠者を尊ぶ古の伝統を説き、乱世に節を守る秀の徳を称え、征召を勧める内容である。蕭敬の叛乱時、秀は宕渠川に避難し、80歳ながら荷物を代わりに背負おうとした郷人を「各々に老幼がいる、まず彼らを救うべき、私はまだ気力がある」と断った。その後十余年で家に没した。