占術と當塗高の解釈
- 杜瓊、字は伯瑜、蜀郡成都の人。若くして任安に学び占術を極めた。劉璋時代は従事、劉備の益州平定後は議曹従事、後主践祚後は諫議大夫、左中郎将・大鴻臚・太常を歴任した。物静かで寡黙、門を閉ざし世事に関わらず、蔣琬・費禕らに重んじられた。学識は深かったが天文について論じることはなかった。譙周が理由を問うと、瓊は「この術を明らかにするのは難しく、自ら視て色形を識別せねばならない。夜通し苦労し、その上漏洩を憂うくらいなら知らぬ方がよい、それゆえ見なくなった」と答えた。
- 周がさらに「かつて周舒(周羣の父)が當塗高を魏とした意味は何か」と問うと、瓊は「魏は闕の名、當塗而高とは聖人が類比で言ったものだ」と答え、また「古くは官職に曹の字を用いなかったが漢以来官はみな曹と称する、吏は属曹、卒は侍曹という、これは天意だろう」と述べた。
- 瓊は80余歳、延熙十三年(250年)に没した。『韓詩章句』十余万言を著したが子には教えず学は伝わらなかった。譙周は瓊の言を敷衍し、『春秋伝』で秦穆公が太子を仇、弟を成師と名付け師服の予言どおり乱が生じた例、漢霊帝が二子を史侯・董侯と名付け共に廃されて諸侯となった例を引き、先主の諱「備」(具の意)・後主の諱「禅」(授の意)から「劉すでに具わり、当に人に授くべし」との意にとれると論じた。後の景耀五年(262年)、宦官黄皓が権を弄ぶ中、宮中の大樹が理由なく折れると、周は憂慮し柱に「衆而大、期之會、具而授、若何復」と書いた(曹は衆、魏は大、天下は会すべし、具にして授く、如何ぞ復た立つ者あらんや、の意)。蜀の滅亡後、人々はこれを的中と見たが、周自身は「これは自分が推測したものだが、杜君の言葉を広げたに過ぎず、格別な洞察ではない」と述べた。