三國志卷四十二 蜀書十二 周羣

占候の家学

  • 周羣、字は仲直、巴西閬中の人。父の舒(字叔布)は廣漢の楊厚に学び、董扶・任安に亜ぐ名声を得たが度重なる徴召にも応じなかった。「代漢者當塗高」の讖について問われ「當塗高とは魏である」と答えたという。
  • 羣は幼くして父に学び占候に専念、庭に小楼を建て奴僕に昼夜天象を見張らせ、自ら登って観測し、予言の的中率が高かった。州牧劉璋に師友従事として招かれた。
  • 建安七年(202年)、越巂で男が女に化けたとき、羣はかつて哀帝の代にも同様の例があり易世の兆しだと述べ、実際二十五年(220年)に献帝は山陽公に封じられた。十二年(207年)十月、鶉尾の分野(荊州)に彗星が現れると、羣は荊州牧の死と失地を予言し、翌年劉表が没し曹操が荊州を平定した。十七年(212年)十二月、五諸侯の分野に彗星が現れると、羣は西方に割拠する者(劉璋・張魯・韓遂・宋建)が皆失地するとし、翌年宋建が捕らえられ韓遂は羌中で殺され、その秋に劉璋は益州を失い、二十年(215年)秋、曹操の漢中攻めで張魯が降った。

劉備への諫言と張裕の予言

  • 劉備が漢中を曹操と争おうとし羣に問うと、羣は「地は得ても民は得られない、偏軍を出せば必ず不利、慎むべき」と答えた。同時期、州後部司馬の張裕(字南和)も占候に優れ羣以上の才があったが、同じく漢中出兵に反対した。劉備は聞き入れず、結果は羣の言葉どおり地は得たが民は得られず、遣わした将軍呉蘭・雷銅らも武都で全滅した。これにより羣は茂才に挙げられた。
  • 裕は密かに「庚子の歳、天下は代替わりし劉氏の運は尽きる、主公が益州を得てから九年後、寅卯の間にこれを失うだろう」と語り、密告された。かつて劉備と劉璋が涪で会見した際、裕は多鬚で、劉備が「昔涿県に住んでいた頃、東西南北皆諸毛(毛姓)ばかりで『諸毛が涿を巡り住む』と称された」とからかうと、裕は劉備の無鬚を当て込み「かつて上党潞の長から涿の令に遷った者が、辞職して家に帰る際、人々が書に『潞』とすれば『涿』が漏れ『涿』とすれば『潞』が漏れるので『潞涿君』と署した故事がある」と即座に答えた。劉備はこれを根に持ち、さらに漏言を憤り、漢中出兵反対の予言が的中したことを口実に裕を獄に下し誅そうとした。諸葛亮が減罪を上表したが、劉備は「蘭生の門に生じたものは鋤かねばならぬ」と答え、裕は棄市に処された。その後、魏の建国と劉備の崩御は裕の予言どおりとなった。裕はまた相術に通じ、鏡で自らの顔を見るたび刑死の相を知り常に鏡を地に叩きつけていたという。
  • 羣の没後、子の臣がその術を伝えた。