三國志卷四十一 蜀書十一 楊洪
楊洪、字は季休、犍為武陽の人。李厳の功曹から出発し、漢中防衛の必要を説いて益州の総力戦を主張、蜀郡太守代理として実務を処理した。永安に先主が留まった際に起きた黄元の乱を的確に予見し平定に功があった。建興元年関内侯を賜り、建興6年在官のまま没した。忠実清廉な人柄で知られた。
漢中防衛の主張
- 楊洪は字を季休といい、犍為武陽の人。劉璋の時代に諸郡の職を歴任した。先主が蜀を平定すると太守李厳は功曹に任じた。李厳が郡の役所を移転させようとした際、楊洪は強く諫めたが聞き入れられず、功曹の職を辞して退官を願った。李厳は楊洪を州に推薦し、部蜀従事となった。
- 先主が漢中を争っていた際、急使が兵の派遣を求めた。軍師将軍諸葛亮がこれを楊洪に問うと、楊洪は「漢中は益州の咽喉であり存亡の分かれ目、漢中を失えば蜀もない、これは家門の禍だ。今は男子は戦い女子は輸送に当たるべき時、兵を出すのに何を疑う必要があろうか」と答えた。当時蜀郡太守法正は先主に従って北方にいたため、諸葛亮は楊洪を蜀郡太守代理に推挙し、諸事はすべて円滑に処理されたので正式に太守となった。まもなく益州治中従事に転じた。
黄元の乱の平定
- 先主が皇帝を称し呉への遠征に失敗して永安に留まった頃、漢嘉太守黄元は日頃諸葛亮に嫌われており、先主の病を聞くと後患を恐れ、郡を挙げて反乱し臨邛城を焼いた。諸葛亮は東方(永安)へ病を見舞いに赴いており成都は手薄で、そのため黄元はますます憚らなかった。
- 楊洪はただちに太子(劉禅)に上申し、親兵を派遣させ将軍陳曶・鄭綽に黄元を討たせた。衆議は黄元が成都を包囲できなければ越雟を経て南中に拠るだろうと予測したが、楊洪は「黄元は元来凶暴で他に恩信がない、そのような大事を成せるはずがない、水路を東に下り主上(先主)の安否を伺い、面縛して降伏を願うか、あるいは呉へ逃れ活路を求めるかのどちらかだろう。陳曶・鄭綽には南安峡口で待ち構えさせればよい」と述べた。陳曶・鄭綽は楊洪の言葉通り伏兵を配置し、果たして黄元を生け捕った。楊洪は建興元年〈223年〉関内侯を賜り、再び蜀郡太守・忠節将軍となり、後に越騎校尉となり郡はそのまま治めた。
張裔との確執と晩年
- 建興5年〈227年〉、丞相諸葛亮は北の漢中に駐屯するにあたり張裔を留府長史に用いようとし、楊洪に意見を求めた。楊洪は「張裔は聡明で難事の処理に長け才能は十分に堪えるが、性格が公平でなく専任するのは危ういと思う、向朗を留める方がよい。向朗は誠実さがやや優り、張裔はその能力を存分に発揮させれば両方にとって良い結果になる」と答えた。当初、張裔は若い頃楊洪と親しかったが、張裔が呉に抑留されている間に楊洪が張裔の郡(蜀郡)に赴任し、張裔の子張郁が郡吏として仕える中で些細な過ちを咎められた際、特に赦されなかったことがあった。張裔は帰国後にこれを聞き深く恨み、楊洪との親交に亀裂が入った。楊洪が諸葛亮のもとに赴いた際、張裔の元を訪れ楊洪が語った内容をすべて伝えると、張裔は「あの人(楊洪)は私を留めておくつもりだったのを、貴殿(諸葛亮)が止めなかっただけだ」と答えた。当時の人々は、楊洪が自ら長史になりたかったのではないか、あるいは張裔が楊洪を嫌っていることを知り張裔を要職・後方統括に就けたくなかったのではないかと疑った。
- 後に張裔は司塩校尉岑述と不和になり忿恨に至った。諸葛亮は張裔への書簡で「君が以前德陽陌下で軍が壊滅した際、私の心痛は食事の味も分からぬほどだった。後に呉に流されたと聞いた時も悲しみで眠れなかった。帰還した時には大任を委ね、共に王室を助け合い、古の石交(金石の交わり)のような間柄だと思っていた。石交の道とは、仇であっても推挙し骨肉を割いてでも明らかにすることであり、恩を謝すことすらないものだ。まして私はただ元儉(岑述)に意を寄せているだけなのに、君はなぜ忍べないのか」と述べた。これによって楊洪に私心のなかったことが明らかになったと世に評された。
- 楊洪は若い頃学問を好まなかったが、忠実清廉で款誠篤実、公事を家事のように憂え、継母によく孝を尽くした。建興6年〈228年〉に在官のまま没した。かつて楊洪が李厳の功曹であった頃、李厳がまだ犍為を去らないうちに楊洪は既に蜀郡太守になっていた。
何祗――楊洪の推挙による活躍
- 楊洪が門下書佐だった何祗を迎え入れると、才策と功績があり、郡吏に挙げられ数年で広漢太守となった。この時楊洪もまだ蜀郡にあり、このため西土の人々は諸葛亮が当代の人材を余すところなく用いていると称賛した。何祗は字を君粛といい、幼くして貧しく、人柄は寛厚で世事に通じ、体格は壮健で大食大酒を好み、節倹を守らなかったため当時あまり貴ばれなかった。かつて井戸の中に桑が生える夢を見て占夢の趙直に問うと、趙直は「桑は井戸の中にあるものではない、いずれ移植されるだろう、しかし『桑』の字は四十の下に八がある、君の寿命はそれを超えないだろう」と答えると、何祗は笑って「それで十分だ」と言った。
- 当初郡に仕え、後に督軍従事となった。諸葛亮の法運用が厳格であった頃、何祗が遊興放縦で職務に励まないと密かに聞き、不意に牢獄を検分に訪れたことがあった。皆が何祗のために心配したが、何祗はそれを密かに聞きつけると夜のうちに灯りをともして囚人に会い供述書を読み込んでいたため、翌朝諸葛亮が来た際にはすでに暗誦しており、応対に淀みがなく、諸葛亮はこれを非常に評価した。成都令に補され、郫県の令が欠員した際は2県を兼任した。2県は戸口が多く都に近く様々な不正が横行していたが、何祗は人と会うたびよく居眠りしていたので、目覚めた時にはよく不正を見抜いたため、人々はその発見を畏れ、あるいは何か術があると考え敢えて欺こうとする者はなくなった。人に計算させる際は、口で読み上げさせながら心中で計算し、升合の違いもなかったという、その精密さはこの類であった。汶山の夷が不安定であったため何祗を汶山太守とすると、民夷は服し信頼した。広漢に遷った後、夷が反乱した際「何府君が来ればこそ我らは安んじられる」と言われ、何祗が難を解決した後、族人を抜擢し汶山は再び安定した。犍為太守に転じ、48歳で没し、趙直の予言どおりであった。後に広漢の王離(字伯元)も才幹で知られ、督軍従事として法を公平に運用し、次第に昇進して何祗の後任として犍為太守となり治績を挙げたが、聡明さでは何祗に及ばずとも文才は勝っていたという。