関羽への使者
- 費詩は字を公挙といい、犍為南安の人。劉璋の時代に綿竹令となり、先主が綿竹を攻めた際、真っ先に城を挙げて降った。成都平定後、先主が益州牧を領すると費詩は督軍従事となり、牂牁太守を経て州の前部司馬に戻った。
- 先主が漢中王となった際、費詩を遣わして関羽を前将軍に任命させたが、関羽は黄忠が後将軍になったと聞くと「大丈夫たる者、老兵などと同列にはなれぬ」と怒り拝命を拒んだ。費詩は関羽に「王業を興す者は一人の力によらない。昔、蕭何・曹参は高祖と幼少からの親交があり、陳平・韓信は後から帰順した身でありながら、その班列では韓信が最も上位に立ったが、蕭何・曹参はこれを怨まなかったと聞く。今、漢中王(漢王ではなく漢中王)が一時の功績で漢升(黄忠)を重んじたとしても、心の重さはあなたに及ぶものではない。しかも王とあなたは腕と体のように一体であり、休戚禍福を共にする間柄だ、愚見では、あなたが官号の高低・爵禄の多寡を意に介する必要はないと思う。私は一介の使者にすぎないが、あなたが拝命しなければこのまま帰るしかない、ただこの挙動を惜しむのみだ、後悔されぬよう」と説いた。関羽は大いに感じ入り、すぐに拝命を受けた。
即位への反対と孟達への諫言
- 後に群臣が漢中王に皇帝への即位を勧める議を進める際、費詩は上疏した(要旨):殿下は曹操父子が主君を脅かし帝位を奪ったために万里を流浪し士衆を糾合して賊討伐を目指してきた。今なお天敵(魏)を克服していないのに先んじて自立すれば人心が疑惑を抱く恐れがある。昔、高祖は楚と「先に秦を破った者が王となる」と約したが、咸陽を攻略し子嬰を得てもなお推譲の姿勢を示した。まして殿下はまだ門庭を出ていないのに自立を望むのは、私にはお勧めできない。
- この諫言は先主の意に逆らい、費詩は左遷されて永昌従事となった。
孟達をめぐる諸葛亮とのやりとり
- 建興3年〈225年〉、諸葛亮の南征に従い、帰路漢陽県に至ると降人李鴻が諸葛亮を訪ねた。諸葛亮が李鴻に会う席には蔣琬と費詩が同席していた。李鴻は「孟達の元を通りかかった際、王沖が南から来ており、以前孟達が魏に降った経緯について明公(諸葛亮)が切歯し孟達の妻子を誅そうとしたが先主が聞き入れなかったと語っていた。孟達は『諸葛亮は私の事情を汲んでくれる、決してそのような事はしないだろう』と王沖の話を全く信じず明公を頼りにしきっている」と伝えた。諸葛亮は蔣琬・費詩に「都に戻ったら子度(孟達)へ書簡を送ろう」と述べると、費詩は「孟達は小人物で、かつて振威将軍(劉璋)に不忠を働き、後にまた先主に背いた、反覆常なき人物になぜ書を送る必要があるのか」と進言したが、諸葛亮は黙して答えなかった。
- 諸葛亮は孟達を外部の援軍として引き込もうと考え、書簡を送った(要旨):昨年南征し年末に帰還する頃、李鴻と漢陽で会い消息を聞き感慨深く思った、それは足下の平素の志を偲んだからで、単に空しく名誉を語り合いたいだけではない。しかも劉封が足下を侵陵したことは先主の士人を遇する義を損なったことでもある。また王沖が虚言を弄し足下が私の心を疑って王沖の話に乗らなかったと聞いた、これまでの好誼を思い出し東を望んで書を送る、という趣旨だった。孟達は諸葛亮の書を受け取ると幾度もやりとりし、魏への叛意を語るようになった。魏は司馬懿を遣わして討伐させ、たちまち孟達を斬り滅ぼした。諸葛亮も孟達に誠意がないことを知っていたため援助しなかった。蔣琬が政を執ると費詩は諫議大夫となり、家で没した。
王沖――孟達の裏切りを伝えた人物
- 王沖は広漢の人。牙門将として江州の李厳に属していたが、李厳に憎まれ罪を恐れて魏に降った。魏は王沖を楽陵太守とした。孫盛『蜀世譜』にいう、費詩の子費立は晋の散騎常侍となった、以後益州で名の知れた費氏の多くは費詩の子孫であるという。
史論
- 評曰:霍峻は孤城を守って傾かせず、王連は節義を固く守って動じず、向朗は学を好み倦まず、張裔は敏捷に応対を尽くし、楊洪は忠公の心を持ち、費詩は率直に直言した、いずれも記すべき事績がある。先主の広大な度量、諸葛亮の厳正な準縄をもってしても、費詩が直言を吐いて左遷されたほどであるから、まして凡庸な後の世においてはなおさらである。