三國志卷四十 蜀書十 魏延
魏延、字は文長、義陽の人。先主の入蜀に従い戦功を重ね、漢中王即位後は異例の抜擢で漢中太守となった。用兵に長け北伐でも功を挙げたが、諸葛亮への不満と楊儀との確執を深めた。建興12年、諸葛亮の死後に楊儀と対立して敗走し、馬岱に討たれ三族を滅ぼされた。
漢中太守への抜擢
- 魏延は字を文長といい、義陽の人。部曲を率いて先主の入蜀に従い、しばしば戦功を挙げ牙門将軍に遷った。先主が漢中王となり治所を成都に移す際、漢川を鎮める重将が必要となり、衆論は皆張飛が任じられるだろうと考え張飛自身もそのつもりでいたが、先主は意外にも魏延を抜擢し督漢中鎮遠将軍・漢中太守とし、全軍が驚いた。
- 先主は群臣を集めた席で魏延に「今、重任を委ねる、どう考えるか」と問うと、魏延は「もし曹操が天下の兵を挙げて来れば大王のために防ぎましょう、偏将が10万の兵を率いて来れば大王のために呑み込みましょう」と答えた。先主は良しと称え、皆その言葉を壮とした。
- 先主が皇帝に即位すると鎮北将軍に進んだ。建興元年〈223年〉、都亭侯に封じられた。建興5年〈227年〉、諸葛亮が漢中に駐屯すると督前部・丞相司馬・涼州刺史を兼ねさせた。建興8年〈230年〉、魏延を西の羌中に入らせ、魏の後将軍費瑤・雍州刺史郭淮と陽谿で戦い大破した。前軍師・征西大将軍に遷り仮節、南鄭侯に進封された。
子午谷の策と諸葛亮との確執
- 魏延は諸葛亮の出兵のたびに兵1万を請い、韓信の故事に倣い別道から潼関で合流したいと望んだが、諸葛亮はこれを許さなかった。魏延は常に諸葛亮を臆病だと言い、自分の才が十分に用いられないことを嘆いた。
- 魏延は士卒を良く養い勇猛で人に優れていたが、性格は誇り高く高圧的で、当時の者は皆これを避けて下手に出た。ただ楊儀だけは魏延に遠慮せず、魏延はこれを深く恨み、両者は水と火のようであった。
- 建興12年〈234年〉、諸葛亮が北谷口に出兵する際、魏延は前鋒であった。諸葛亮の営から10里出た時、魏延は頭上に角が生える夢を見て占夢の趙直に問うと、趙直は表向きは「麒麟は角を持ちながらそれを用いない、これは戦わずして敵が自壊する兆しだ」と偽って告げ、退いてから人には「角という字は刀の下に用いるものだ、頭上に刀があるのは非常に凶である」と話した。
諸葛亮死後の内紛と最期
- 秋、諸葛亮は病篤くなり、密かに長史楊儀・司馬費禕・護軍姜維らと自分の死後の退軍手順を定め、魏延に殿を務めさせ姜維をその次とし、もし魏延が命に従わなければ軍だけで出発させるよう命じた。諸葛亮が没すると喪を秘し、楊儀は費禕を魏延の元へ遣わし意向を探らせた。魏延は「丞相が亡くなっても私はまだ健在だ。丞相府の官属は喪を護送して葬ればよく、私は自ら諸軍を率いて賊を撃つべきだ、なぜ一人の死で天下の事を廃せるのか。しかも魏延が何者だからといって楊儀に指図されて殿を務める将になれというのか」と言い、費禕と共に軍の去留の割り振り案を作り、費禕に自分と連名で諸将に告げる文書を書かせた。
- 費禕は魏延を欺き「あなたのために楊長史(楊儀)を説得しに戻ります、長史は文官で軍事に疎く、必ず命令に背きません」と言って馬を馳せて去った。魏延はまもなく後悔したが追いつけなかった。魏延は人を遣わして楊儀らの動静を探らせると、諸葛亮の定めた計画通りに諸営が順次撤退しているのを知り、大いに怒り、楊儀が出発する前に自軍を率いて先に南へ帰り、通過した桟道を全て焼き払った。
- 魏延と楊儀は互いに謀反したと表し、一日のうちに羽檄が交錯した。後主が侍中董允・留府長史蔣琬に問うと、蔣琬・董允はいずれも楊儀を信じ魏延を疑った。楊儀らは山を切り開いて道を通し昼夜兼行で魏延の後を追った。魏延が先に南谷口に至り、兵を遣わして楊儀らを迎撃したが、楊儀は何平(王平)を前に立てて防がせた。王平は魏延の先鋒を叱って「公(諸葛亮)が亡くなり体もまだ冷めていないのに、お前たちはどうしてこんな事をするのか」と言うと、魏延の兵は理が魏延にないと知り誰も命令に従わず、軍は解散した。魏延は僅かな子と共に逃亡し漢中へ向かったが、楊儀は馬岱を遣わして追い斬らせ、首を楊儀の元に届けさせた。楊儀は自らその首を踏みつけ「凡愚め!これでもまだ悪事を働けるか」と言い、魏延の三族を滅ぼした。
- 当初、蔣琬は宿衛諸営を率いて救援に北上したが、数十里進んだところで魏延死去の報せが届き、引き返した。魏延の本意は北の魏に降ることではなく南に帰ることであり、ただ楊儀らを除きたかっただけだと考えられている。日頃の諸将評から自分こそ諸葛亮の後継と目されると考えていたためで、初めから叛意はなかった。