出自と入蜀での戦功
- 劉封は元来羅侯寇氏の子で、長沙劉氏の甥にあたる。先主が荊州に至った時、まだ跡継ぎがなかったため劉封を養子とした。先主の入蜀の際、葭萌から劉璋を攻めるべく戻る時、20余歳であった劉封は武芸に優れ気力人に勝り、兵を率いて諸葛亮・張飛らと共に長江を遡り、至る所で戦に勝った。益州平定後、副軍中郎将となった。
孟達との確執と関羽の敗北
- 元、劉璋が扶風の孟達を法正の副として遣わし、それぞれ2千の兵を率いて先主を迎えさせた際、先主は孟達にその軍勢をも領させ江陵に駐屯させた。蜀平定後、孟達は宜都太守となった。
- 建安24年〈219年〉、孟達は秭帰から北上し房陵を攻めるよう命じられ、房陵太守蒯祺は孟達の軍に殺された。孟達がさらに上庸を攻めようとした際、先主は孟達一人に任せることを恐れ、劉封を漢中から沔水を下らせ孟達軍を統率させ、上庸で合流させた。上庸太守申耽は軍を挙げて降り、妻子・宗族を成都に送った。先主は申耽を征北将軍とし員郷侯・上庸太守はそのままとし、申耽の弟申儀を建信将軍・西城太守とし、劉封を副軍将軍に遷した。
- 関羽が樊城・襄陽を包囲した際、しきりに劉封・孟達に援軍を呼びかけたが、両者は山郡が服したばかりで動揺しかねないと言い訳して命に従わなかった。やがて関羽が敗れると先主はこれを恨んだ。また劉封と孟達は争い不和となり、劉封は孟達の鼓吹(軍楽隊)を奪った。孟達は罪を恐れ、また劉封を憤り、先主に上表して背き、配下を率いて魏に降った。
- 魏の文帝は孟達の才容を気に入り散騎常侍・建武将軍とし平陽亭侯に封じた。房陵・上庸・西城の3郡を合わせて新城郡とし孟達をその太守とした。魏は征南将軍夏侯尚・右将軍徐晃を遣わし孟達と共に劉封を襲わせた。孟達は劉封に書を送り降伏を勧めた。劉封はこれに従わなかった。
申儀の離反と最期
- 申儀が劉封に叛き、劉封は敗走して成都に戻った。申耽は魏に降り懐集将軍を仮せられ南陽に移り、申儀は魏興太守となり員郷侯に封じられ洵口に駐屯した。
- 劉封が成都に戻ると、先主は劉封が孟達を侵し辱め、また関羽を救わなかったことを責めた。諸葛亮は劉封の剛猛な性格が後継の代には制御し難くなることを恐れ、この機に除くよう先主に勧めた。そこで先主は劉封に死を賜り自裁させた。劉封は「孟子度(孟達)の言を用いなかったことが悔やまれる」と嘆いた。先主はこれに涙を流した。
孟達――その後の子孫
- 孟達は本来字を子敬といったが先主の叔父の諱を避けて改めた。劉封の子劉林は咸熙元年〈264年〉河東に移された。孟達の子孟興は議督軍となり、この年に扶風に還された。