三國志卷三十九 蜀書九 馬良
馬良、字は季常、襄陽宜城の人。兄弟中随一の秀才とされ「白眉」の故事で知られる。荊州で諸葛亮と親交を結び、呉への使者としてその和を取り持った。劉備の呉征討に従い五渓蛮夷を招撫したが、夷陵の敗戦で落命した。弟の馬謖は諸葛亮に重用されたが、建興6年、街亭の戦いに敗れ処刑された。
出自と諸葛亮との交誼
- 馬良は字を季常といい、襄陽宜城の人。兄弟5人はいずれも才名があり、郷里で「馬氏五常、白眉最良」(馬氏五兄弟の中で眉に白毛のある馬良が最も優れる)と称された。
- 先主が荊州を領すると従事に招かれた。先主が入蜀した際、諸葛亮も後を追って入蜀したが、馬良は荊州に留まり諸葛亮に書を送り「雒城が既に落ちたと聞く、これは天の助けだ。尊兄(諸葛亮)は時運に応じて世を助け業を成し国を輝かせ、その兆しがすでに見える」と祝い、更に優れた人材登用のあり方(雅な思慮を用い時に応じて才を用いること)を音楽に例えて論じた。先主は馬良を左将軍掾に招いた。
呉への使者・夷陵の戦いでの死
- 後に呉への使者に立つ際、馬良は諸葛亮に「今国命を帯び両家の和を図る、どうか私を孫将軍(孫権)への紹介役としてほしい」と頼んだ。諸葛亮が「君自身で文を作ってみよ」と答えると、馬良は自ら草稿を作った。「我が君(先主)は掾馬良を遣わし友好を通じ、昆吾・豕韋の勲を継がせようとしている。彼は吉士で荊楚の令名があり、軽率さはないが物事を成す美質がある、どうか心を降して受け入れ、使命をねぎらってほしい」との内容で、孫権はこれを見て馬良を敬遇した。
- 先主が皇帝を称すると馬良を侍中とした。呉への東征に際し、馬良を武陵に遣わして五渓蛮夷を招撫させると、蛮夷の渠帥は皆印綬を受け意のままに従った。先主が夷陵で敗れると馬良も遭難した。先主は馬良の子馬秉を騎都尉に任じた。
馬良の弟・馬謖――才器と街亭の敗戦
- 馬良の弟馬謖は字を幼常といい、荊州従事として先主の入蜀に従い、綿竹・成都令、越雟太守を歴任した。才器は人に優れ軍略を論じることを好み、丞相諸葛亮は深く彼を高く評価した。
- 先主は臨終の際、諸葛亮に「馬謖は言葉が実を過ぎる、重用してはならぬ、よく見極めよ」と告げたが、諸葛亮はそう思わず馬謖を参軍とし、常に接見して昼夜語り合った。
- 建興3年〈225年〉、諸葛亮が南中を征する際、馬謖は数十里を見送り「南中は険遠を恃んで久しく服さず、今日破っても明日また反するだろう。今公(諸葛亮)はまさに国を挙げて北伐しようとしているところで、敵に内実の空虚を知られればますます速く反乱するだろう。皆殺しにして後患を絶つのは仁者の情に反し、また急には行い難い。用兵の道は攻心を上とし攻城を下とし、心戦を上とし兵戦を下とする、どうか公は彼らの心を服させることを図られよ」と進言した。諸葛亮はこの策を採り、孟獲を赦して南方を服させた。以後、諸葛亮の存命中、南方は二度と反乱を起こさなかった。
- 建興6年〈228年〉、諸葛亮が祁山に軍を出した際、老将魏延・呉壱らを差し置いて衆論に反し馬謖を抜擢し大軍を先鋒として統率させたが、街亭で魏の将張郃と戦い敗れ、士卒は離散した。諸葛亮は進む拠り所を失い漢中へ退いた。馬謖は下獄して死に、諸葛亮は彼のために涙を流した。馬良は36歳、馬謖は39歳で死んだ。馬謖は臨終の際、諸葛亮に「明公は私を子のように見てくださり、私も明公を父のように見ておりました。どうか鯀を誅して禹を興した義を深く思い、平生の交わりをこの一事で損なわないでください、そうすれば私は死しても黄泉で恨みはありません」と書き送り、これに10万の兵が涙したという。諸葛亮は自ら祭を執り行い遺孤を生前同様に遇した。
- 蔣琬が後に漢中に至り「昔、楚は得臣(子玉)を殺したが、その後文公が喜んだのはご存知の通りです。天下未だ定まらぬ中で智謀の士を殺すのは惜しいことではないでしょうか」と諸葛亮に言うと、諸葛亮は涙を流し「孫武が天下に勝ちを制することができたのは、法を明らかにしたからだ。だからこそ楊乾が法を乱すと魏絳はその御者を戮した。四海分裂し兵乱が始まったばかりの今、もし再び法を廃せば、どうして賊を討てようか」と答えた。習鑿歯はこれについて、晋が林父(荀林父)の敗戦を許して功を収めたのと楚が得臣を殺して敗戦を重く見たのとを比較し、蜀は狭小で人材が乏しいのに俊傑を殺したのは、先主の誡めを守れなかった諸葛亮の過ちであると論評している。