三國志卷三十九 蜀書九 劉巴

劉巴、字は子初、零陵烝陽の人。若くして知られたが荊州の招聘には応じず、赤壁後は曹操の下へ向かった。曹操の敗戦後は交阯を経てようやく益州へ入り、劉璋・劉備の下で財政再建に手腕を発揮した。清廉倹約を貫き、劉備称帝の文誥を起草するなど尚書令として重んじられたが、章武2年に没した。

年表(2件)

曹操への接近と益州流浪

  • 劉巴は字を子初といい、零陵烝陽の人。若くして知られた。18歳で郡の戸曹史・主記主簿を務めた。劉先(劉表の一族)が甥の周不疑を劉巴に学ばせようとした際、劉巴は「自分は荊北で師に学んだ程度で名を挙げるに足りない、賢甥(周不疑)を燕雀の巣に遊ばせるようなものだ」と謙遜して断った。
  • 荊州牧劉表がしばしば招聘し茂才にも挙げたが応じなかった。劉表の没後、曹操が荊州を征すると先主は江南へ奔り荊楚の士は雲のように従ったが、劉巴だけは北の曹操の元へ向かった。曹操は劉巴を掾に任じ、長沙・零陵・桂陽の招撫を命じた。
  • 曹操が烏林で敗れて北へ帰る際、劉巴に長沙などへの使者の任が命じられたが、先主が3郡を占拠したため使命を果たせず、遠く交阯へ赴こうとした。臨蒸にいた諸葛亮に「危険を冒して行き、義を思う民に出会えば自ら軍を興し、天の心・物の性に従う。他人の勧めでは動かない。もし道が窮まれば滄海に身を託し、二度と荊州を顧みない」と書き送ると、諸葛亮は「劉公(劉備)は雄才世に蓋い荊土を領し帰徳しないものはない、天命人心はすでに明らかだ、足下はどこへ行くのか」と問うた。劉巴は「命を受けて来た以上、成らねば帰るのが道理、なぜそのような事を言うのか」と答えた。先主はこれを深く恨んだ。

蜀入りと財政再建

  • 劉巴は交阯から再び蜀に至った。益州郡に拘留され太守に殺されかけたが、主簿が「これは尋常の人物ではない、殺してはならない」と自ら護送を申し出て益州牧劉璋に会わせた。劉璋の父劉焉はかつて劉巴の父劉祥に孝廉に挙げられており、劉璋は劉巴に会って驚喜し、大事があるたびに諮問した。
  • まもなく先主が益州を平定すると、劉巴は罪を謝したが先主は責めなかった。諸葛孔明がしばしば推挙し、先主は劉巴を左将軍西曹掾に任じた。
  • かつて張飛が劉巴の宿舎を訪れた際、劉巴が口をきかなかったため張飛が憤慨した。諸葛亮が「張飛は武人だが足下を敬慕している、主公は今文武を糾合して大事を成そうとしている、少し意を屈してはどうか」と諭すと、劉巴は「大丈夫たる者は四海の英雄と交わるべきで、なぜ兵士風情と語らねばならないのか」と答えた。先主はこれを聞き「私は天下を定めたいのに、子初(劉巴)はそれを乱している。北へ帰ろうとするなら道を貸してやろうか」と怒った。だが同時に「子初の才智は人に抜きん出ており、私自身以外に彼を任用できる者はいない」とも言った。諸葛亮も「幕中で策を巡らすことにかけては私は子初に遠く及ばない」と評した。
  • 劉璋攻略の際、先主は将兵に「事が定まれば府庫の物には手をつけない」と約したが、成都陥落後に将兵が競って財宝を奪い軍用が不足し、先主は憂慮した。劉巴は「簡単なことです、ただ直百銭を鋳造し諸物価を安定させ、官営市場を吏に管理させればよい」と進言した。先主がこれに従うと、数ヶ月で府庫は充実した。

尚書令としての晩年

  • 建安24年〈219年〉、先主が漢中王となると劉巴は尚書となり、後に法正に代わって尚書令となった。清廉倹約を実践し産業を営まず、帰順が本意でなかったことを疑われることを恐れて恭黙に身を守り、私交を絶ち公事以外は語らなかった。
  • 先主が皇帝を称した際の皇天上帝后土神祇への告文、その他の文誥策命は全て劉巴の作であった。章武2年〈222年〉に没した。没後、魏の尚書僕射陳羣は丞相諸葛亮への書簡で劉巴の消息を尋ね「劉君子初」と称して深く敬重した。