三國志卷三十八 蜀書八 秦宓

秦宓、字は子敕、広漢綿竹の人。若くして才学があったが仕官を避け隠士を任じた。人物評・弁舌に優れ、呉の使者張温との問答で機知を示し名を高めた。劉璋・蜀漢に仕え、建興2年(224年)諸葛亮の下で別駕・左中郎将・長水校尉となったが、建興4年(226年)に没した。

年表(2件)
  • 建興2年224年丞相諸葛亮が益州牧を領すると別駕に迎えられ、のち左中郎将・長水校尉となった
  • 建興4年226年大司農に遷った後、没した

出自と任定祖の推薦

  • 秦宓は字を子敕といい、広漢綿竹の人。若くして才学があったが、州郡の招聘には常に病と称して応じなかった。
  • 州牧劉焉への上奏文で儒士任定祖(任安)を推挙した(要旨):百里奚・蹇叔は老齢で計を定め、甘羅・子奇は童冠で功を立てた故事を引き、人材登用は年齢によらないと説く。近年の察挙は英俊のみを重んじ老成の士を遺しており、これは太平の緩やかな歩みであって乱世の急務に適さないと批判。危を救い乱を治めるには常と異なる非凡な人材登用が必要と説き、仁義の道を貫き名声が四方に及ぶ処士任安を推挙する。楚の葉公が偽りの龍を好んだ故事、湯王が伊尹を挙げて不仁の者が遠ざかった故事、何武が二龔(龔勝・龔舎)を挙げて名を竹帛に残した故事を引き、目先の高評よりも遠大な人物を重んじるべきと説いた。
  • 益部耆旧伝によれば、任安は広漢の人で聘士楊厚に師事して図籍を極め、京師に遊学後帰郷して講義し董扶と共に学行で並び称された。郡功曹・州治中別駕に招かれたが長く在職せず、孝廉茂才に挙げられ太尉の辟召・博士・公車徴にも応じなかった。州牧劉焉は任安の徳と器量を評価し弼疑の輔にすべきと表薦したが、招聘には応じなかった。79歳、建安7年〈202年〉に没し、門人が慕って碑銘を立てた。後に丞相諸葛亮が秦宓に任安の長所を尋ねると「人の善を記し人の過ちを忘れる」人物だったと答えた。

王商・李権とのやりとり

  • 劉璋の頃、同郡の王商が治中従事として秦宓に出仕を勧める書を送った(「貧賤に甘んじるのはいつまでか、和氏の璧のように才を世に示すべきだ」との趣旨)のに対し、秦宓は堯が許由を優遇しても許由が耳を洗った故事、楚が荘周を招いても釣り竿を執って顧みなかった故事を引き、隠遁の志を述べる返書を送った。自分は隴畝で背を曝し顔回の簞瓢・原憲の蓬戸を誦し、林沢に遊び沮溺と伍し、安身を楽とし無憂を福とすることこそ本懐だと述べた。
  • 後に王商が厳君平・李弘の祠を建てた際、秦宓は書簡でこれを称賛し、厳君平の文章・李弘(李仲元)の徳・司馬相如の功績を挙げ、王商にも司馬相如の徳を慕い祠堂を建てて速やかに銘を定めるよう勧めた。
  • 李権が秦宓に『戦国策』を借りようとした際、秦宓は「戦国の縦横の術を何に用いるのか」と問うた。李権は孔子・厳君平が衆書を集めて『春秋』『指帰』を成した故事を引き博識の必要を説いたが、秦宓は返書で『春秋』『孝経』の道と戦国の権謀術数は異質であり、老子の「見るべき欲を見せねば心が乱れない」を引き、戦国の詭道を退けるべきだと論じた。

人物論と夏侯纂との問答

  • ある者が秦宓に、巣父・許由・四皓に自らを比しながら文藻を揚げるのは矛盾ではないかと問うと、秦宓は「言葉は意を尽くせない、何の文藻を揚げようか」と答え、孔子が哀公に三たび見え七篇を成した故事、接輿が歌いながら行き渔父が滄浪を詠んだ故事を引き、虎や鳳凰が生まれつき美しい文様を持つのと同様に文徳も天性のものだと述べ、子貢に論破された棘子成の故事を引いて謙遜した。
  • 先主の益州平定後、広漢太守夏侯纂は秦宓を師友祭酒兼五官掾に招き「仲父」と呼んだ。秦宓は病と称して臥せったまま出仕せず、夏侯纂が功曹古朴・主簿王普と共に秦宓の邸で酒宴を催しても臥せったままだった。
  • 夏侯纂が古朴に「貴州の養生の道具は他州に勝るが、士人はどうか」と尋ねると、古朴は「爵位こそ他州に及ばないが著作にかけては世の師表となり劣らない。厳君平は『指帰』、揚雄は『太玄』『法言』、司馬相如は武帝の封禅の文を著した」と答えた。夏侯纂が「仲父はどうか」と重ねて問うと、秦宓は簿(手板)で頬を叩きながら、蜀の地理・歴史(岷山から流れる長江の水利、禹が石紐で生まれた伝承、鯀・禹の治水の功、天帝の分野説など)を長々と語り、益州がいかに天下の要地であるかを述べた。夏侯纂は返答に窮した。

張温との問答・晩年

  • その後、益州は秦宓を従事祭酒に招いた。先主が皇帝を称し呉への東征を図った際、秦宓は天の時が味方しないと諫めたため投獄されたが後に赦された。
  • 建興2年〈224年〉、丞相諸葛亮が益州牧を領すると秦宓を別駕に迎え、まもなく左中郎将・長水校尉となった。
  • 呉の使者張温が来聘した際、百官が皆餞別に赴いたが秦宓は遅れて来た。諸葛亮が催促し、張温が「何者か」と問うと諸葛亮は「益州の学士」と答えた。到着すると張温が「君は学問をするか」と問い、秦宓は「五尺の童子でも学ぶ、なぜ小人だけがしないと思うのか」と答えた。以下、天に頭・耳・足・姓があるかという問答が続いた。秦宓は『詩経』を引きつつ「天は西を眷顧するので頭は西にある」「天は高きにありて卑を聴くので耳がある」「天歩艱難というので足がある」「天子は劉姓なので天も劉姓」「日は東に生じ西に没する」と機知に富む返答で全て切り返し、張温を大いに敬服させた。秦宓の文才と弁舌はこの類が多かった。
  • 大司農に遷り、建興4年〈226年〉に没した。秦宓はかつて帝系の文(五帝を同一の血族とする説)の誤りを論じ、また皇帝・王・覇や豢龍氏の説を論じた見識は深く、譙周(字允南)が若い頃しばしば教えを乞い、その言を『春秋然否論』に記録したが、文が多いため省く。

史論

  • 評曰:許靖は若くから名節があり、篤実さと人物鑑識の両方に意を用いたが、行動が全て妥当だったわけではない。蔣済は許靖を「概ね廊廟の器」と評した。麋竺・孫乾・簡雍・伊籍は皆雍容として議論に優れ世に礼遇された。秦宓は隠者を慕う志こそあったが実際には愚に安んじる実がなく、専対(外交応答)に長け文藻壮美であり、一時の才士と言える。