三國志卷三十二 先主傳第二 劉備(字玄德)
劉備、字は玄德、涿郡涿県の人(?–223年)。漢の宗室の末裔とされ、貧しい少年期を経て黃巾討伐で身を起こした。曹操・呂布・袁紹・劉表ら群雄の間を転々としながら人望を集め、諸葛亮を軍師に迎えて赤壁の戦いで曹操を破り、荊州・益州を平定して蜀漢を建てた。章武元年(221年)に皇帝に即位したが、関羽の仇討ちのため呉に親征して夷陵で大敗し、章武三年(223年)永安宮で没して後事を諸葛亮に託した。
年表(15件)
- 靈帝末(頃)184年黃巾討伐の功により安喜尉に任じられる
- 建安元年196年呂布が下邳を急襲し妻子を虜にする
- 建安五年200年曹操自ら東征し先主は敗績、妻子と関羽を虜にされる
- 建安十二年207年劉表が病没し、子の劉琮が曹操に降伏
- 建安十三年208年当陽長坂で曹操軍に大敗するも、赤壁で曹操を破る
- 建安十六年211年劉璋に迎えられ益州に入る
- 建安十九年214年雒城陥落後、成都を包囲し劉璋が開城降伏、益州を得る
- 建安二十年215年孫権と荊州を分割し軍を戻す
- 建安二十四年219年定軍山で夏侯淵を斬り、漢中を領有する
- 建安二十四年219年群下の推戴を受け漢中王となる
- 建安二十五年220年献帝弑殺の風聞を受け喪を発し、孝愍皇帝と追諡
- 章武元年221年成都武擔の南で皇帝に即位
- 章武元年221年関羽を殺した孫権への報復のため呉を親征
- 章武二年222年陸議(陸遜)に猇亭で大敗、馮習・張南らが戦没
- 章武三年223年諸葛亮に後事を託し、永安宮で崩御(享年六十三)
出自と生い立ち
- 先主は姓を劉、諱を備、字を玄德といい、涿郡涿県の人。漢の景帝の子・中山靖王劉勝の後裔で、勝の子劉貞が元狩六年に涿県陸城亭侯に封ぜられたが酎金の罪で侯位を失い、以来この地に住み着いた。祖父の劉雄は孝廉に挙げられ東郡范県令にまで至り、父の劉弘も州郡に仕えた。
- 先主は幼くして父を失い、母と共に履を売り蓆を織って生計を立てた。舎の東南の垣に高さ五丈余の桑樹があり、遠目に車蓋のように見えたため人々は貴人が出る前兆と噂した。少年時代、宗族の子らと木の下で遊び「必ずやこの羽葆蓋車(天子の車)に乗ってみせる」と語り、叔父の劉子敬に「妄言するな、一族を滅ぼす気か」と戒められたという。
- 十五歳で母の勧めで遊学し、同族の劉徳然・遼西の公孫瓚と共に元九江太守の盧植に師事した。徳然の父劉元起は常に先主の学資を援助し、公孫瓚とは兄事する仲であった。先主は読書をあまり好まず犬馬・音楽・美衣を好み、身の丈七尺五寸、手を垂れれば膝に届き自らその耳を顧みることができた。寡黙で人に謙り喜怒を表に出さず、豪俠と交わることを好んで年少者が争って付き従った。中山の大商人・張世平と蘇雙が馬を売買して涿郡を往来する中で先主を見て非凡と感じ、多くの金財を与えたことで先主は徒衆を集めることができた。
靈帝末(184年頃)――挙兵と初任官
- 靈帝の末、黃巾が蜂起すると州郡は各々義兵を挙げ、先主は校尉鄒靖に従って黃巾賊討伐に功があり安喜尉に任じられた。督郵が公事で県に来た際、先主が面会を求めたが通されず、直接踏み込んで督郵を縛り杖二百を加え、綬を解いてその首に繋ぎ馬の枊に括りつけて官を棄てて逃げた。
- のち大将軍何進が遣わした都尉毌丘毅に従い丹楊への募兵に赴く途中、下邳で賊と戦い功を挙げて下密丞に任じられたがまた官を去った。後に高唐尉、次いで高唐令となった。靈帝が崩じ天下が乱れると先主も董卓討伐の軍に加わったが賊に敗れ、中郎将公孫瓚のもとに走った。瓚は先主を別部司馬に表し、青州刺史田楷と共に冀州牧袁紹に対抗させた。しばしば戦功を挙げ平原令を試守し、のち平原相を領した。郡民の劉平は先主を軽んじ客を送って刺そうとしたが、客はかえって先主の厚遇に打たれ事情を明かして去った。
徐州の獲得(194年)
- 袁紹が公孫瓚を攻めると先主は田楷と共に東の斉に屯した。曹公(曹操)が徐州を征すると徐州牧陶謙は田楷に急を告げ、楷は先主と共にこれを救った。陶謙は先主に丹楊兵四千を益し、先主はついに楷を離れ謙に帰した。謙は先主を豫州刺史に表し小沛に屯させた。謙は病篤くなり別駕麋竺に「劉備でなければこの州を安んじられぬ」と語り、没すると竺は州人を率いて先主を迎えた。先主は当初固辞したが、下邳の陳登や北海相孔融の説得を受けて徐州を領することとなった。
- 袁術が先主を攻め、先主は盱眙・淮陰でこれを拒んだ。曹公は先主を鎮東将軍・宜城亭侯に表した。是歳(建安元年、196年)、先主が袁術と対峙する間に呂布が虚を突いて下邳を襲い、守将曹豹が呼応して布を迎え入れ、布は先主の妻子を虜にした。先主は軍を海西に移した。
呂布との抗争と曹操への帰順(196-198年)
- 先主は小沛に還ったが、呂布を憎みつつも和を求め、布は妻子を返した。先主は再び兵一万余を集めたが、布はこれを憎んで自ら攻め、先主は敗れて曹公のもとに帰した。曹公は厚遇して豫州牧とし、兵糧を与えて東の布を撃たせた。布は高順を遣わして攻めさせ、曹公が遣わした夏侯惇も敗れ、先主の妻子は再び布に虜われた。曹公は自ら東征して布を下邳で下し、生け捕りにした。先主は妻子を取り戻し、曹公と共に許に帰った。左将軍に表され、輿を同じくし席を同じくするほどの礼遇を受けた。袁術が徐州を経て袁紹を頼ろうとした際、曹公は先主に朱靈・路招を督させて要撃させたが、術は病死した。
衣帯詔と徐州奪回(199-200年)
- 先主が未だ出立せぬうち、献帝の舅・車騎将軍董承が帝の衣帯に秘めた密詔を受け曹公誅殺を謀り、先主に打ち明けたが先主はまだ動かなかった。この頃曹公は「今天下の英雄は使君(先主)と操のみだ、本初(袁紹)ごときは数えるに足らぬ」と語り、先主は驚いて箸を落とした。先主は董承や种輯・呉子蘭・王子服らと同謀したが、事が発覚する前に出撃の機会を得て出立し、承らは後に誅殺された。
- 先主は下邳を得ると徐州刺史車冑を殺し、関羽に下邳を守らせ自らは小沛に還った。東海の昌霸が反し郡県の多くが曹公に叛いて先主に付き、その衆数万を得て孫乾を袁紹に遣わして連和した。建安五年(200年)、曹公自ら先主を東征し、先主は敗績した。曹公は先主の妻子を虜にし、関羽も生け捕った。
河北から荊州へ(200-207年)
- 先主は青州に走り、旧知の刺史袁譚に迎えられ、袁紹自ら鄴を離れて出迎えた。曹公と袁紹が官渡で対峙する中、汝南の黃巾劉辟らが曹公に叛いて紹に応じると、紹は先主にこれと共に許都近くを略させた。関羽が先主のもとへ帰参した。曹公が曹仁を遣わして先主を撃つと先主は紹軍に戻ったが、密かに紹から離れようと図り、荊州牧劉表と結ぶよう説いた。紹は先主を再び汝南に遣わし、賊龔都らと合流させて数千の衆を得たが、曹公の遣わした蔡陽は先主に討たれた。
- 曹公が紹を破ると自ら南して先主を撃った。先主は麋竺・孫乾を劉表に遣わして通じ、表は自ら郊迎して上賓の礼で迎え、兵を益して新野に屯させた。荊州の豪傑で先主に帰する者が日に増し、表は先主の心を疑い密かに備えた。
建安十二年(207年)――三顧の礼と劉表の死
- 建安十二年、曹公が北して烏丸を征すると、先主は表に許都襲撃を説いたが表は用いなかった。曹公が南して表を征す途中、表は病没した。表は臨終に先主へ荊州を託そうとしたが先主は「諸子はそれぞれ賢い、君はただ病を憂うるがよい」と受けなかった。子の劉琮が代わって立ち、使者を遣わして曹公に降った。先主は樊に屯していたが曹公の急襲を知らず、宛に至って初めて聞き衆を率いて去った。襄陽を過ぎる際、諸葛亮は先主に琮を攻めて荊州を取るよう勧めたが、先主は「忍びない」と応じなかった。琮の左右や荊州の人々の多くが先主に帰した。
建安十三年(208年)――当陽の敗走と赤壁の戦い
- 先主は表の墓に別れを告げて南下、当陽に至る頃には衆十余万、輜重数千両となり一日に十余里しか進めなかった。関羽には別に船数百艘を率いさせ江陵で合流させることとした。人が先行して江陵を保つよう勧めたが、先主は「大事を済すには人を本とすべきだ、今人が私に帰しているのに何で棄てられよう」と応じなかった。
- 曹公は江陵の軍需を恐れ軽軍で襄陽に至り、先主が既に過ぎたと聞くと精騎五千で一昼夜三百余里を追撃、当陽の長坂で追いついた。先主は妻子を棄て、諸葛亮・張飛・趙雲ら数十騎と共に走り、曹公は多くの人衆・輜重を得た。先主は漢津に趣き関羽の船隊と合流して沔水を渡り、劉表の長子で江夏太守の劉琦の衆万余人と合し夏口に至った。先主は諸葛亮を孫権のもとへ遣わして誼を結ばせ、権は周瑜・程普らの水軍数万を先主に合流させた。曹公軍と赤壁で戦い大破し、その舟船を焼いた。先主は呉軍と水陸並進して南郡まで追撃、時に疫病も重なって曹公の北軍は多く死し、曹公は軍を引いて帰った。
建安十四年~十五年(209-210年)――荊州の経営
- 先主は劉琦を荊州刺史に表し、さらに南して武陵・長沙・桂陽・零陵の四郡を平定し、それぞれ太守の金旋・韓玄・趙範・劉度が降った。廬江の雷緒も部曲数万口を率いて服した。琦が病没すると群下は先主を荊州牧に推し公安を治所とした。孫権は先主を畏れ妹を嫁がせて誼を固めた。先主が京に赴き権に会った際、権は蜀の攻略を共に図ろうと持ちかけたが、荊州主簿殷観の献策により先主は伐蜀に加わらず自ら図る道を残した。
建安十六年(211年)――益州入り
- 益州牧劉璋は曹公が漢中を討とうとしていると聞いて恐れ、別駕従事張松の勧めで先主に張魯討伐を頼ることとし、法正に四千の兵を持たせて先主を迎えさせた。先主は諸葛亮・関羽らに荊州を守らせ数万の兵で益州に入った。涪において璋自ら出迎え、互いに歓を尽くした。張松や謀臣龐統は璋を会座で襲うよう進言したが、先主は「大事だ、軽々しくできぬ」と退けた。璋は先主に兵を益して張魯討伐に向かわせ、白水軍の督も兼ねさせた。先主は軍三万余を併せ、車甲器械資貨も甚だ盛んであった。先主は葭萌に至ったが張魯討伐にはすぐ向かわず恩徳を厚くして人心を収めた。
建安十七年~十九年(212-214年)――成都の攻略
- 明年(十七年)、曹公が孫権を征すと権は先主に救援を求めた。先主は璋に万の兵と物資を求めたが璋は四千の兵と半分の物資しか許さなかった。折しも張松が先主・法正に書を送ったことが発覚し、兄の張粛の密告で璋は松を斬った。璋は関戍の諸将に先主との文書往来を絶つよう命じ、先主は激怒して白水軍督楊懐を斬り、黃忠・卓膺を先鋒に璋の将劉璝・冷苞・張任・鄧賢らを涪で破り綿竹に迫った。璋が遣わした李厳は綿竹の軍を率いて先主に降った。諸葛亮・張飛・趙雲らも兵を分けて白帝・江州・江陽を平定し、先主は雒を包囲した。璋の子劉循が城を守り攻防はほぼ一年に及んだ。
- 建安十九年(214年)夏、雒城が陥ちた(張任は捕らえられたが二君に仕えずと拒んで殺された)。先主は成都を数十日包囲し、璋はついに開城して降った。先主は蜀城の金銀を将士に分与し穀帛を民に還した。先主は再び益州牧を領し、諸葛亮を股肱、法正を謀主、関羽・張飛・馬超を爪牙、許靖・麋竺・簡雍を賓友とし、旧璋配下の董和・黃権・李厳や姻戚の呉壱・費観、璋に排斥された彭羕、旧怨のある劉巴らも皆重用した。
建安二十年(215年)――孫権との荊州分割
- 孫権は先主が益州を得たのを見て荊州の返還を求めたが、先主が「涼州を得てから荊州を返す」と応じたため権は怒り呂蒙に長沙・零陵・桂陽三郡を襲わせた。先主は兵五万を率いて公安に下り関羽を益陽に入れた。折しも曹公が漢中を定め張魯が巴西へ逃れたと聞き、先主は権と和して荊州を分割(江夏・長沙・桂陽を東の呉領、南郡・零陵・武陵を西の蜀領)し軍を江州に戻した。黃権を遣わして張魯を迎えようとしたが、魯は既に曹公に降っていた。曹公は夏侯淵・張郃に漢中を守らせ巴の境を犯させたため、先主は張飛を宕渠に進めて瓦口で郃らを破り南鄭から成都へ還った。
建安二十三年~二十四年(218-219年)――漢中の平定
- 二十三年、先主は諸将を率いて漢中に進軍したが、別遣した呉蘭・雷銅らは武都で曹公軍に敗没した。先主は陽平関に留まり夏侯淵・張郃と対峙した。
- 二十四年春、沔水を南に渡り定軍山に営を築くと、淵の軍が争ってきたため先主は黃忠に高地から鼓譟して攻めさせ淵の軍を大破、淵と曹公の益州刺史趙顒らを斬った。曹公自ら長安から南征したが、先主は険を頼って戦わず、曹公は多くの死者を出して夏に軍を引いた。先主はついに漢中を領有し、劉封・孟達・李厳らに上庸の申耽を攻めさせた。
- 秋、群下は先主を漢中王に推し、馬超・許靖・龐羲・射援・諸葛亮・関羽・張飛・黃忠・賴恭・法正・李厳ら百二十人が漢帝に上表した。奏文は董卓・曹操による簒奪の危機と先主の忠義を述べ、周・漢が同姓を封建して社稷を安んじた故事を引いて漢中王への冊封を求めるものであった。沔陽に壇場を設け先主に王冠を加え、先主も漢帝に上言し左将軍・宜城亭侯の印綬を返還した。成都に還り魏延を都護として漢中に鎮めた。時に関羽が曹公の将曹仁を攻め于禁を樊で生け捕ったが、まもなく孫権が関羽を襲殺し荊州を奪った。
建安二十五年(220年)――献帝弑殺の風聞
- 建安二十五年、魏の文帝が帝位に即き年号を黃初と改めた。漢帝が害されたとの風聞が伝わると、先主は喪を発して服し孝愍皇帝と追諡した。この頃、議郎陽泉侯劉豹・青衣侯向挙・偏将軍張裔・黃権ら多数の臣下が瑞祥(洛書・図讖の類)を挙げて先主に即位を勧める上表を相次いで行った。太傅許靖・安漢将軍麋竺・軍師将軍諸葛亮ら重臣も、黃龍の出現や玉璽の出土など瑞祥を根拠に「漢の後を承ぐべき」と上表した。
章武元年(221年)――皇帝即位
- 先主は成都武擔の南で皇帝に即位した。告文には、王莽の簒奪を光武帝が誅して漢を復興した先例を引き、今また曹丕の簒奪を正すべく漢の後を継ぐ旨が述べられた。
- 章武元年夏四月、大赦し改元。諸葛亮を丞相、許靖を司徒とした。百官を置き宗廟を立て高皇帝以下を祫祭した。五月、呉氏を皇后に立て、子の禅を皇太子とした。六月、子の永を魯王、理を梁王とした。車騎将軍張飛がその左右の者に殺害された。先主は孫権が関羽を襲ったことを怒り東征を図り、秋七月、諸軍を率いて呉を伐った。孫権が和を請うたが先主は許さず、呉将の陸議・李異・劉阿らは巫・秭帰に屯し、先主の将吳班・馮習は巫からこれを破って秭帰に進んだ。武陵の五渓蛮夷も先主に援兵を請うた。
章武二年(222年)――夷陵の敗戦
- 二年春正月、先主は秭帰に軍を還し、呉班・陳式の水軍を夷陵に屯させ長江の東西両岸に挟ませた。二月、先主自ら諸将を率いて山を越え嶺を截り、夷道の猇亭に営を進め、佷山を通じて武陵に至り、侍中馬良を遣わして五渓蛮夷を慰撫すると皆呼応した。鎮北将軍黃権は江北の諸軍を督して呉軍と夷陵道で対峙した。夏六月、黃気が秭帰の十余里に広さ数十丈にわたって現れ、その十余日後、陸議は猇亭で先主軍を大破し、将軍馮習・張南らはいずれも戦没した。先主は猇亭から秭帰に還り離散した兵をまとめたが、船を棄て歩いて魚復に帰り、魚復県を永安と改めた。呉の将軍李異・劉阿らが先主軍を追撃して南山に駐屯した。秋八月、兵を収めて巫に還った。司徒許靖が卒した。冬十月、丞相諸葛亮に成都で南北の郊祀を営ませた。孫権は先主が白帝にあると聞いて大いに恐れ和を請い、先主はこれを許して太中大夫宗瑋を答礼に遣わした。冬十二月、漢嘉太守黃元は先主の病を聞いて挙兵し拒守した。
章武三年(223年)――永安での崩御
- 三年春二月、丞相諸葛亮が成都から永安に至った。三月、黃元は臨邛県を攻めたが、討伐の陳曶に敗れ捕らえられ成都で斬られた。先主は病篤く、丞相諸葛亮に後事を託し、尚書令李厳を副とした。夏四月癸巳、先主は永安宮に崩じた。時に年六十三。臨終に際し魯王(劉永)を呼び「私の死後、そなたら兄弟は丞相に父のごとく仕え、丞相と共に事にあたるように」と語った。
- 諸葛亮は後主に上言し、先帝の喪礼と服喪期間(郡国太守以下は三日で服を除くこと等)を定めた。五月、梓宮は永安から成都に還り、昭烈皇帝と諡された。秋八月、恵陵に葬られた。
史論
- 評に言う。先主の弘毅・寛厚にして人を知り士を待つさまは高祖の風格と英雄の器量を備えていた。国を挙げて諸葛亮に後事を託し心に二心なきに至っては、君臣の至公、古今の盛軌というべきである。機略・才幹の面では魏武(曹操)に及ばず、それゆえ基盤も狭かった。しかし挫けても撓まず、終には人の下に甘んじなかったのは、その度量が己を許さなかったからであり、ただ利を競うだけでなく害を避けるためでもあった。