三國志卷三十三 後主傳第三 劉禪(字公嗣)
蜀漢の第二代皇帝(後主)。諱は禪、字は公嗣、先主劉備の子。建安二十四年に王太子に立てられ、章武三年(223年)先主の崩御により十七歳で即位した。丞相諸葛亮ら賢相に国政を委ねた治世の後、晩年は宦官黃皓の専政を招き、景耀六年=炎興元年(263年)魏軍に降って蜀漢は滅亡した。降伏後は洛陽に遷って安楽県公に封ぜられ、泰始七年に没した。
年表(16件)
- 建安二十四年219年先主が漢中王となり王太子に立てられる
- 章武三年=建興元年223年先主の崩御を受け成都で即位、時に十七歳
- 建興三年225年丞相諸葛亮が南征し四郡を平定
- 建興六年228年亮が祁山を攻めるも克たず、陳倉を囲むも糧尽きて退く
- 建興九年231年都護李厳が廃されて梓潼郡に徙される
- 建興十二年234年諸葛亮が渭水の畔で卒し、魏延と楊儀の内訌で魏延が敗死
- 延熙元年238年大将軍蔣琬が漢中に出屯
- 延熙九年246年大司馬蔣琬が卒す
- 延熙十六年253年大将軍費禕が魏の降人郭循に漢寿で殺される
- 延熙十八年255年姜維が魏の雍州刺史王経を洮西で大破
- 延熙十九年256年姜維が魏の大将軍鄧艾に上邽で破られ成都に退く
- 景耀元年258年宦人黃皓が専政を始める
- 景耀五年262年姜維が鄧艾に侯和で破られ沓中に退屯
- 景耀六年=炎興元年263年光禄大夫譙周の策を用い鄧艾に降り蜀漢が滅亡
- 泰始七年安楽県公として洛陽で薨じる
- 景元五年264年洛陽に遷り安楽県公に策命される
出自と立太子
- 後主、諱は禪、字は公嗣、先主の子。建安二十四年(219年)、先主が漢中王となると王太子に立てられた。先主が帝位に即くと「太子禪は、朕が漢運の艱難に遭い賊臣が簒奪する中で大統を継いだ。今、禪を皇太子とし宗廟を承がせる。丞相亮を遣わして印綬を授けさせる、師傅の教えを敬い聴くように」との冊書が下された。
章武三年=建興元年(223年)――即位
- 章武三年夏四月、先主が永安宮に崩じた。五月、後主は成都で位を襲い、時に年十七、皇太后(呉皇后)を尊んだ。大赦して改元、この歳は魏の黃初四年にあたる。
- 建興元年夏、臧柯太守朱褒が郡を擁して反した。これに先立ち益州郡の大姓雍闓が反し太守張裔を呉に流し郡に拠って服さず、越巂の夷王高定も背叛した。この歳、張氏を皇后に立てた。尚書鄧芝を呉に遣わして誼を固め、呉王孫権と和親を通じ修好した。
建興二年(224年)
- 春、農耕殖穀に努め関を閉ざして民を休ませた。
建興三年(225年)
- 春三月、丞相諸葛亮が南征し四郡を平定した。益州郡を建寧郡と改め、建寧・永昌郡を分けて雲南郡を、建寧・臧柯を分けて興古郡を置いた。十二月、亮は成都に還った。
建興四年(226年)
- 春、都護李厳が永安から江州に還り大城(今の巴郡故城)を築いた。
建興五年(227年)
- 春、丞相亮は漢中に出屯し沔水の北・陽平の石馬に営を置いた。後主は三月に詔を下し、董卓・曹操・曹丕による簒奪の系譜と先帝の中興の事績を述べ、諸葛亮に旄鉞の権と歩騎二十万を授けて北伐に赴かせる旨を宣言した。
建興六年(228年)
- 春、亮は祁山を攻めたが克たなかった。冬、再び散関を出て陳倉を囲んだが糧尽きて退いた。魏将王双が追撃すると亮はこれを破り王双を斬って漢中に還った。
建興七年(229年)
- 春、亮は陳式を遣わして武都・陰平を攻めさせ二郡を平定した。冬、府営を南山下の原上に移し漢城・楽城を築いた。この歳、孫権が帝を称し、蜀と盟を結んで天下を分割する約束を交わした。
建興八年(230年)
- 秋、魏は司馬懿を西城から、張郃を子午から、曹真を斜谷からと三道に分けて漢中を攻めようとした。丞相亮は城固・赤坂で待ち構え、大雨で道が絶えたため真らは皆退いた。この歳、魏延は魏の雍州刺史郭淮を陽渓で破った。魯王永を甘陵王に、梁王理を安平王に改封した(魯・梁の封地が呉との境界に近いため)。
建興九年(231年)
- 春二月、亮は再び祁山を囲み、初めて木牛で兵糧を運んだ。魏の司馬懿・張郃が祁山を救援。夏六月、亮は糧尽きて退軍、追撃した張郃は青封で交戦し矢に当たり戦死した。秋八月、都護李厳が廃されて梓潼郡に徙された。
建興十年(232年)
- 亮は黃沙で士を休め農事を勧め、流馬・木牛を完成させ兵を教練した。
建興十一年(233年)
- 冬、亮は諸軍に米を運ばせ斜谷口に集め斜谷の邸閣を修めた。この歳、南夷の劉冑が反し、将軍馬忠がこれを破り平定した。
建興十二年(234年)――諸葛亮の死
- 春二月、亮は斜谷から出撃し初めて流馬で兵糧を運んだ。秋八月、亮は渭水の畔に卒した。征西大将軍魏延が丞相長史楊儀と権を争って和せず兵を挙げて相攻め、延は敗走した。延の首を斬り、儀は諸軍を率いて成都に還った。大赦。左将軍呉壱を車騎将軍として仮節・漢中督とし、丞相留府長史蔣琬を尚書令として国事を統括させた。
建興十三年(235年)
- 春正月、中軍師楊儀が廃されて漢嘉郡に徙された。夏四月、蔣琬を大将軍に進めた。
建興十四年(236年)
- 夏四月、後主は湔県に至り観坂に登って汶水の流れを望み、旬日で成都に還った。武都の氐王苻健と氐民四百余戸を成都に徙した。
建興十五年(237年)
- 夏六月、皇后張氏が薨じた。
延熙元年(238年)
- 春正月、張氏を皇后に立てた。大赦、改元。子の睿を太子に、瑤を安定王に立てた。冬十一月、大将軍蔣琬が漢中に出屯した。
延熙二年(239年)
- 春三月、蔣琬を大司馬に進めた。
延熙三年(240年)
- 春、越巂太守張嶷に越巂郡を平定させた。
延熙四年~五年(241-242年)
- 四年冬十月、尚書令費禕が漢中に至り蔣琬と事計を諮り、歳末に還った。五年春正月、監軍姜維が偏軍を督して漢中から涪県に還屯した。
延熙六年(243年)
- 冬十月、大司馬蔣琬が自ら漢中から涪に還り駐屯した。十一月、大赦。尚書令費禕を大将軍とした。
延熙七年(244年)
- 閏月、魏の大将軍曹爽・夏侯玄らが漢中に向かうと、鎮北大将軍王平が興勢の囲いで拒み、大将軍費禕が諸軍を督して救援に赴き、魏軍は退いた。夏四月、安平王理が卒した。秋九月、禕は成都に還った。
延熙八年(245年)
- 秋八月、皇太后が薨じた。十二月、大将軍費禕が漢中に至り防備を巡視した。
延熙九年(246年)
- 夏六月、費禕が成都に還った。秋、大赦。冬十一月、大司馬蔣琬が卒した。
延熙十年(247年)
- 涼州の胡王白虎文・治無戴らが衆を率いて降り、衛将軍姜維が迎えて安撫し繁県に住まわせた。この歳、汶山平康の夷が反したが維がこれを討ち破り平定した。
延熙十一年(248年)
- 夏五月、大将軍費禕が漢中に出屯した。秋、涪陵の属国の民夷が反し、車騎将軍鄧芝が討伐して平定した。
延熙十二年(249年)
- 春正月、魏が大将軍曹爽らを誅し、右将軍夏侯霸が来降した。夏四月、大赦。秋、衛将軍姜維が雍州を攻めたが克たずに還った。将軍句安・李韶は魏に降った。
延熙十三年(250年)
- 姜維が再び西平に出撃したが克たずに還った。
延熙十四年(251年)
- 夏、大将軍費禕が成都に還った。冬、再び北の漢寿に駐屯した。大赦。
延熙十五年(252年)
- 呉王孫権が薨じた。子の琮を西河王に立てた。
延熙十六年(253年)
- 春正月、大将軍費禕が魏の降人郭循に漢寿で殺された。夏四月、衛将軍姜維が再び衆を率いて南安を囲んだが克たずに還った。
延熙十七年(254年)
- 春正月、姜維が成都に還った。大赦。夏六月、維が再び隴西に出撃した。冬、狄道・河関・臨洮三県の民を抜いて綿竹・繁県に住まわせた。
延熙十八年(255年)
- 春、姜維が成都に還った。夏、再び諸軍を率いて狄道に出撃、魏の雍州刺史王経と洮西で戦い大破した。経は狄道城に退き守り、維は鍾題に留まった。
延熙十九年(256年)
- 春、姜維を大将軍に進め戎馬を督させ、鎮西将軍胡済と上邽で会するよう約したが済は誓に遅れず来なかった。秋八月、維は魏の大将軍鄧艾に上邽で破られ成都に退いた。この歳、子の瓚を新平王に立てた。大赦。
延熙二十年(257年)
- 魏の大将軍諸葛誕が寿春に拠って反したと聞き、姜維が再び駱谷に出撃し芒水に至った。この歳大赦。
景耀元年(258年)
- 姜維が成都に還った。史官が景星の出現を言上し、大赦して改元。宦人黃皓が専政を始めた。呉の大将軍孫琳がその主・孫亮を廃し琅邪王孫休を立てた。
景耀二年(259年)
- 夏六月、子の諶を北地王、恂を新興王、虔を上党王に立てた。
景耀三年(260年)
- 秋九月、故将軍関羽・張飛・馬超・龐統・黃忠を追諡した。
景耀四年(261年)
- 春三月、故将軍趙雲を追諡した。冬十月、大赦。
景耀五年(262年)
- 春正月、西河王琮が卒した。この歳、姜維が再び侯和に出撃し鄧艾に破られ沓中に退き駐屯した。
景耀六年=炎興元年(263年)――蜀漢の滅亡
- 夏、魏は大挙して衆を興し、征西将軍鄧艾・鎮西将軍鍾会・雍州刺史諸葛緒に数道から攻めさせた。そこで左右車騎将軍張翼・廖化・輔国大将軍董厥らを遣わして拒がせた。大赦し年号を炎興と改めた。冬、鄧艾が衛将軍諸葛瞻を綿竹で破った。光禄大夫譙周の策を用い、艾に降り、次のような降表を上した。「江漢に限られ京畿から万里も隔たった蜀の地にあって、黃初年間には文帝が虎牙将軍鮮于輔を遣わし温詔を賜ったが、否徳のため久しく大教に従えずにいた。天威が震い人心が帰服する中、あえて面を革め命に従う。諸将に武器を収めさせ官府の帑蔵は一つも毀たない。百姓は野に満ち余った穀物は畝に残る、これをもって後来の恵みを待ち民の命を全うしたい。伏して大魏の布徳施化を仰ぎ、私署侍中張紹・光禄大夫譙周・駙馬都尉鄧良を遣わして継印綬を奉り、命を請い誠を尽くす」。
- この日、北地王劉諶は国の滅亡を悲しみ、まず妻子を殺し次いで自殺した。紹・良は雒県で鍾会に遭い、艾は書を得て大いに喜び返書した。禅はさらに太常張峻・益州別駕汝超を遣わして節度を受けさせ、太僕蔣顕に姜維への勅命を伝えさせた。また尚書郎李虎に士民の簿を送らせ、戸二十八万・男女口九十四万・帯甲将士十万二千・吏四万人・米四十余万斛・金銀各二千斤・錦綺采絹各二十万匹その他多数を引き渡した。艾は成都の北に至ると、後主は輿櫬(棺台)を担ぎ自らを縛って軍門に詣で、艾は縛を解き櫬を焼いて礼をもって迎えた。鍾会が涪から成都に至り乱を起こしたが、会が死すと蜀中は数日で鎮まった。
咸熙元年(264年)以降――洛陽移住
- 後主は一家を挙げて東の洛陽に遷り、景元五年(264年)三月丁亥、安楽県公に策命された。策文には、我が太祖(司馬懿)以来の天下平定の経緯を述べ、後主が身を屈して国を保全した功を称え、永く魏の藩輔となることを命じる旨が記された。
- 食邑万戸、絹万匹、奴婢百人などを賜り、子孫で三都尉・封侯となった者は五十余人に及んだ。尚書令樊建、侍中張紹、光禄大夫譙周、秘書令郤正、殿中督張通は皆列侯に封ぜられた。泰始七年、安楽県公は洛陽で薨じた。
史論
- 評に言う。後主は賢相(諸葛亮)を任じている間は道理に循う君主であったが、宦官(黃皓)に惑わされてからは昏暗の後(きみ)となった。「素絲に常無し、ただ染むる所のままなり」との伝の言葉はまことに信ずべきである。礼では国君の継体は年を越えて改元するものとされるが、章武三年をもって建興と改称したのは古義に照らせば理に背く。また国に史官を置かず注記の官もなかったため、行事の多くが遺漏し災異も記されなかった。諸葛亮は政治に通じていたとはいえ、この点はなお不十分であった。しかし在位十二年の間も年号を改めず、軍旅がたびたび興っても赦をみだりに下さなかったのは卓越している。亮の没後この制度は次第に緩み、優劣の差が明らかになった。