三國志卷二十八 王毌丘諸葛鄧鍾傳第二十八 鄧艾

鄧艾(字は士載、義陽棘陽の人)は貧農の出から典農の吏を経て司馬懿に見出された。淮南屯田策を献じて国力を養い、南安太守・征西将軍として姜維の蜀軍をたびたび破り、景元四年には陰平の険を越える奇襲で蜀を滅ぼす功を立てた。しかし専断の振る舞いを鍾会に讒言され謀反の疑いで捕らえられ、鍾会の乱の混乱の中で殺された。西晋建国後に名誉が回復され、子孫の取り立てが図られた。

年表(15件)

出自と若年期

  • 鄧艾、字は士載、義陽棘陽の人である。幼くして父を失い、曹操が荊州を破ると汝南に移り農民として子牛を飼って育った。十二歳の時、母とともに潁川に至り、故太丘長陳寔の碑文にある「文は世の範となり、行いは士の則となる」の句を読んで感銘を受け、自ら名を範、字を士則と改めたが、後に同族に同名の者がいたため範を艾に改めた。都尉学士となったが吃音のため補佐官にはなれず、稲田守叢草吏(田畑の見張り)となった。同郡の吏の父が家の貧しさを憐れみ厚く物資を与えたが、鄧艾は特に礼を言うこともなかった。高山大沢を見るたびに軍営の配置を思案する癖があり、当時の人々に笑われた。のち典農綱紀・上計吏として太尉司馬懿に謁見する機会を得ると、司馬懿はその才を認め掾に招いた。尚書郎に遷った。

淮南屯田の建策

  • 田畑を広げ穀物を蓄え敵討伐の資とすることが計画され、鄧艾は陳・項以東から寿春までを視察するよう命じられた。鄧艾は「田は良いが水が少なく地力を尽くせない、河渠を開いて灌漑すれば軍糧を大いに蓄え運漕の道も通じる」と考え『済河論』を著してその趣旨を述べた。さらに「かつて黄巾を破った後、屯田によって許都に穀物を蓄え四方を制した。今、三方はすでに定まり事は淮南にある。大軍を興すたびに運搬に半数を割かれ費用は莫大で大きな負担となっている。陳・蔡の間は低地で田が良いので許昌左右の稲田の水を東へ導き、淮北に二万人、淮南に三万人を屯田させ十二交代で常に四万人が耕作と守備を兼ねれば、水が豊かなため収穫は西方の三倍になり、諸経費を除いても年に五百万斛が残り軍資となる。六、七年で淮上に三千万斛を蓄えられ、これは十万の兵の五年分の食糧に当たる。これをもって呉を攻めれば勝てぬところはない」と論じた。司馬懿はこれを善しとしすべて実行させた。正始二年、広漕渠が開かれ、東南に事があるたびに大軍が船で長江・淮水に達し、食糧に余裕がありながら水害もなくなったのは鄧艾の建策によるものであった。

南安太守として姜維に対抗

  • 征西軍事に参じ南安太守に遷った。嘉平元年、征西将軍郭淮とともに蜀の偏将軍姜維を防いだ。姜維が退くと郭淮は西へ転じ羌族を撃とうとしたが、鄧艾は「賊は遠くへ去っておらず再び戻るかもしれない、諸軍を分けて不測に備えるべきだ」と述べ、白水の北に留め置かれた。三日後、姜維は廖化を遣わし白水の南から鄧艾に向けて陣を構えさせた。鄧艾は諸将に「姜維が急に戻ってきたのに我が軍は少なく、道理では渡河して橋を作るはずが作っていない。これは姜維が廖化に我らを牽制させ動けなくし、自らは東の洮城を襲おうとしているのだ」と述べた(洮城は水の北、鄧艾の屯所から六十里)。鄧艾は即夜密かに軍を進めて先回りし、果たして姜維が渡河してきた時にはすでに城を確保しており、敗北を免れた。関内侯に叙せられ討寇将軍を加えられ、のち城陽太守に遷った。

辺境政策の建言

  • 当時、并州の右賢王劉豹が匈奴を一つにまとめようとしていたため、鄧艾は「戎狄は獣心にして義によって親しむものではなく、強ければ侵犯し弱ければ内附する。周の宣王には玁狁の侵攻、漢の高祖には平城の包囲があった。単于が国外にあれば統御は及ばず、招いて内侍させることで羌夷は統一を失い離散したままとなる。今、単于の権威は日に日に薄れ地方の勢力が強まっており胡族への備えを深めるべきだ。劉豹の部には叛胡がいると聞く、これを分割し二国とすればその勢いを分散できる。去卑(劉豹の一族)は前朝に功を顕したのに子が跡を継がないので子に顕号を与え雁門に住まわせ、国を離し寇を弱めるのが辺境防衛の長計である」と上言した。また「羌胡が漢民と雑居している地では漸次移住させ、民の模範として廉恥の教えを崇め姦邪の道を塞ぐべきだ」とも進言した。大将軍司馬師が新たに輔政に就くとこれらの多くを採用した。汝南太守に遷ると、かつて自らを厚遇してくれた吏の父がすでに亡くなっていたと知り、吏を遣わして祭らせ厚く母に贈物をし、その子を計吏に推挙した。鄧艾の治めた土地は荒野が開かれ軍民ともに豊かになった。

諸葛恪への評、兖州刺史

  • 諸葛恪が合肥新城を包囲したが陥せず退いた際、鄧艾は司馬師に「孫権はすでに没し大臣もまだ心服していない。呉の名門大族はみな私兵を擁し兵に頼って勢威を張っており、それだけで独自に立命しうる。諸葛恪は政権を握ったばかりで内に主君が定まらず、上下を撫恤し基盤を固めることを念じず外事を競い、民を酷使して国中の軍を堅城に頓挫させ死者は万を数え、禍を招いて帰還した。これは諸葛恪が罪を得る日である。かつて伍子胥・呉起・商鞅・楽毅はみな時の君主に任用されたが、その君主が没すると失脚した。諸葛恪の才はこの四賢に及ばぬのに大患を慮らない、その滅びは待つまでもない」と語り、果たして諸葛恪は帰国後に誅された。兖州刺史に遷り振威将軍を加えられた。鄧艾は「国の急務は農と戦にあり、国が富めば兵は強く、兵が強ければ戦に勝つ。しかし農こそ勝利の根本である。孔子も『食足り兵足る』というが食は兵より先に置かれている。上に爵位を設ける勧めがなければ下に財を蓄える功もない。今、考績の賞を穀物を蓄え民を富ませることに置けば、交遊による立身の道は絶え浮華の源は塞がるだろう」と上言した。

毌丘儉の乱・段谷の戦い

  • 高貴郷公の即位で方城亭侯に進封された。毌丘儉の乱に際し、脚の速い者に偽の書を持たせ人心を惑わそうとしたが鄧艾はこれを斬り、道を急いで軍を進め楽嘉城に先着し浮橋を架けた。司馬師が至るとそのままこれを確保した。文欽が後続の大軍に城下で敗れると鄧艾はこれを追撃し丘頭まで至った。文欽は呉に逃れた。呉の大将軍孫峻らが十万と号する軍で長江を渡ろうとした際、鎮東将軍諸葛誕は鄧艾に肥陽を守らせたが、鄧艾は要害の地でないとして附亭に移り駐屯し、泰山太守諸葛緒らに黎漿で迎え撃たせ敵を退けた。その年、長水校尉に召された。文欽らを破った功で方城郷侯に進封され安西将軍代理となった。雍州刺史王経が狄道で包囲されるとこれを解き、姜維が鍾提に退くと、鄧艾は安西将軍・仮節・領護東羌校尉となった。議論する者の多くは姜維の力が尽き再び出てこないと見ていたが、鄧艾は「洮西の敗戦は小さな損失ではなく、軍を破り将を失い倉廩は空しく百姓は流離し、ほとんど危亡に瀕した。今、策を論ずれば、彼には勝ちに乗じる勢いがあり我には虚弱の実がある、これが一。彼は上下が習熟し武器も鋭利だが我が方は将も兵も新しく武具も整っていない、これが二。彼は船で行くが我は陸軍で労逸が異なる、これが三。狄道・隴西・南安・祁山はそれぞれ守りが必要だが彼は一点に専念でき我は四方に分散する、これが四。南安・隴西から進めば羌の穀物を食い祁山を目指せば熟麦千頃が餌となる、これが五。賊には狡猾な計算があり、必ず来るはずだ」と論じた。
  • ほどなく姜維は果たして祁山へ向かおうとしたが鄧艾が既に備えていると聞き、董亭から南安へ転じ、鄧艾は武城山に拠って対峙した。姜維は険を争ったが破れず、その夜、渭水を渡って東行し山沿いに上邽へ向かい、鄧艾はこれを段谷で迎え撃ち大いに破った。甘露元年、詔で「逆賊姜維は連年狡猾に振る舞い民夷を騒がせ西土を不安にさせていたが、鄧艾は方策をもって忠勇を奮い将を斬ること十数、首級は千を数え、国威は巴蜀に震い武名は江岷に揚がった」と称えられ、鎮西将軍・都督隴右諸軍事、鄧侯に進封され、五百戸を分けて子の鄧忠が亭侯に封ぜられた。甘露二年、長城で姜維を防ぎ姜維は退いた。征西将軍に遷り前後の食邑は合わせて六千六百戸に達した。

蜀漢征討

  • 景元三年、また侯和で姜維を破り、姜維は沓中に退いて守りを固めた。四年秋、蜀征討の詔が下り、大将軍司馬昭がすべての節度を指示し、鄧艾に姜維を牽制させ、雍州刺史諸葛緒に姜維の帰路を断たせた。鄧艾は天水太守王頎らに直接姜維の陣営を攻めさせ、隴西太守牽弘らにその前面を、金城太守楊欣らに甘松を突かせた。姜維は鍾会の諸軍がすでに漢中に入ったと聞き退却した。楊欣らが強川口で追撃し大戦して姜維は敗走した。姜維は雍州軍がすでに橋頭を塞いでいると聞き孔函谷から北道に入り雍州軍の背後に出ようとしたが、諸葛緒はこれを察し三十里退いた。姜維は北道を三十余里進んだところで諸葛緒の軍が退いたと聞き引き返し橋頭を通過し、諸葛緒は姜維を遮ろうとしたがわずか一日及ばなかった。姜維は東へ転じ剣閣を守った。鍾会はこれを攻めたが陥せなかった。鄧艾は「今、賊はすでに摧かれている、この機に乗じ陰平から間道を経て漢徳陽亭を通り涪へ趣き、剣閣の西百里、成都まで三百余里の地から奇兵で敵の腹心を衝くべきだ。剣閣の守りが涪の救援に向かえば鍾会は道を進める、動かなければ涪への援軍は手薄になる。兵法にも『備えなきを攻め不意を突く』とある、今、その空虚を衝けば必ず破れる」と上言した。

陰平越え

  • 冬十月、鄧艾は陰平道の無人の地七百余里を自ら進み、山を穿ち道を通し橋や桟道を築いた。山は高く谷は深く極めて険しく、糧の運搬も窮乏し危機に瀕することがたびたびあった。鄧艾は毛氈で自らを包んで斜面を転がり下り、将士はみな木や崖にすがって縦一列に進んだ。先陣が江由に至ると蜀の守将馬邈が降った。蜀の衛将軍諸葛瞻は涪から綿竹へ戻り陣を並べて鄧艾を待った。鄧艾は子の鄧忠(恵唐亭侯)らを右翼に、司馬師纂らを左翼に出したが、両者とも戦い利あらず退いて「賊はまだ攻められません」と言った。鄧艾は怒り「存亡の分かれ目はこの一戦にある、何が不可能なことがあろうか」と叱りつけ斬ろうとした。鄧忠・師纂は馳せ戻って再び戦い大いに破り、諸葛瞻と尚書張遵らを斬って進軍し雒に至った。劉禅は使者を遣わし皇帝の璽綬を奉じ書簡を鄧艾に送って降伏を請うた。

蜀平定後

  • 鄧艾が成都に至ると、劉禅は太子・諸王及び群臣六十余人を率い両手を縛り棺を車に載せて軍門に至った。鄧艾は自ら節をもって縛を解き棺を焼き、これを受け容れて赦した。将士を統制し略奪を許さず、降伏した者を安んじ旧業に復させ、蜀人はこれを称えた。鄧禹の故事に倣い天子の命を代行して劉禅を驃騎将軍代理、太子を奉車都尉、諸王を駙馬都尉に任じ、蜀の官僚もそれぞれの高下に応じて王官に任じるか鄧艾の属官とした。師纂に益州刺史を領させ、隴西太守牽弘らに蜀中の諸郡を領させた。綿竹に台を築き京観(戦死者の首を積んだ塚)を築いて戦功を顕彰した。戦死した士卒は蜀兵とともに埋葬した。鄧艾は自らの功を大いに誇り蜀の士大夫に「諸君は私に出会えたからこそ今日があるのだ、もし呉漢のような者に遭っていたらとうに滅ぼされていたろう」と語り、また「姜維も一時の英傑ではあるが私と当たったからこそ窮したのだ」と語った。識者はこれを笑った。

功績への詔と対呉構想

  • 十二月、詔で「鄧艾は威を輝かせ武を奮い深く敵地に入り将を斬り旗を奪い、僭号の主に首を垂れさせ、代々誅されなかった罪を一朝にして平らげた。兵は時を超えず戦いは一日で終わり、たちまち巴蜀を平定した。白起が強楚を破り韓信が勁趙を克ち、呉漢が公孫述を捕らえ周亜夫が七国を滅ぼした功も、これに比べれば及ばない」として太尉に任じ食邑二万戸を増し、子二人を亭侯に封じ各千戸とした。袁子はこの評に「諸葛亮ですら蜀兵を頻繁に用いたのは小国弱民が久しく戦を続けられぬと知っていたからで、今回国家が一挙に蜀を滅ぼした速さは前例がない。鄧艾が万余の兵で江由の険を越え、鍾会が二十万の兵を率いながら剣閣で進めず三軍がすでに飢えていた状況で、もし劉禅の降伏が数日遅れていれば両軍は危うかったろう。それゆえ功業を成すのはかくも難しい。国家は先に寿春の役、後に滅蜀の労があり、百姓は貧しく倉廩も空しい。小国の慮りは時に功を立てて自存することにあり、大国の慮りは勝った後に力尽きることにある、成功の後こそ戒め懼れる時である」と論じた。鄧艾はさらに司馬昭へ「今、平蜀の勢いに乗じて呉を攻めれば呉人は震え恐れ席巻できる好機だが、大挙の後は将士が疲弊しているので徐々に備えるべきだ。隴右・蜀の兵を各二万留め、塩を煮て冶を興し軍農の用に充て、あわせて舟船を作り順流の機に備え、その後使者を送り利害を説けば呉は必ず帰化し戦わずして定まるだろう。今は劉禅を厚遇し孫休を招き寄せることに努め、士民を安んじて遠方の人心を招くべきだ。もし劉禅をすぐ京都に送れば呉は流罪と見て帰順の心を萎えさせよう。しばらく留め置き来年の秋冬まで待てば呉も平定できよう。劉禅を扶風王に封じ資財を与え、董卓の塢を宮舎とし、子を公侯に封じ郡内の県を食邑として帰命の寵を示し、広陵・城陽を開いて呉人を待てば、畏威懐徳して従うだろう」と献策した。

鍾会の讒言と最期

  • 司馬昭は監軍衛瓘を遣わし「事は上奏を経てから行うべきで独断してはならない」と鄧艾を諭させたが、鄧艾は重ねて「命を受けて征行し元凶はすでに服した以上、承制して仮に官位を授け新たに帰属した民を安んじるのは権宜にかなうこと。今、蜀の民はことごとく帰服し地は南海に及び東は呉に接する、早く鎮定すべきで、詔を待てば時を失う。春秋の義にも大夫が国境を出て社稷を安んじ国家を利する時は専断してよいとある。兵法にも進んでは名を求めず退いては罪を避けずという。私は古人の節には及ばぬが国を損なうことを恐れて退くつもりはない」と述べた。鍾会・胡烈・師纂らはみな鄧艾の振る舞いを悖逆であると告げ、事態を煽った。詔により檻車で鄧艾を召還させた。『魏氏春秋』によれば鄧艾は天を仰いで「艾は忠臣なるにかくの如きか、白起の酷い最期を今日また見ることになろうとは」と嘆じたという。

粛清とその後

  • 鄧艾父子が囚われると、鍾会は成都に至りまず鄧艾を先に護送させた後に自ら反乱を起こした。鍾会が死ぬと鄧艾の本営の将士はその檻車を追って奪い返し迎え入れたが、衛瓘は田続らを遣わして討たせ、綿竹の西で遭遇しこれを斬った。子の鄧忠も鄧艾とともに死に、洛陽にいた他の子はみな誅され、妻子と孫は西域へ流された。『漢晋春秋』によれば、鄧艾が江由に下った際、田続が進まなかったことに怒り斬ろうとしたが結局赦した経緯があり、衛瓘が田続を遣わす際「江由の恥を雪ぐ機会だ」と言ったという。杜預は人々に「衛瓘(伯玉)は名士で地位も高いが明確な徳もなく部下を正しく御していない、いずれその責めを負うことになろう」と語り、衛瓘はこれを聞くと車馬も待たず謝罪に赴いたという。『世語』によれば師纂も鄧艾とともに死に、性急で人情に薄く死体には無傷の皮膚がなかったという。

夢占いと名誉回復

  • 鄧艾が蜀討伐に臨む前、山上に座し流水がある夢を見て殄虜護軍爰邵に問うたところ、爰邵は「易の卦にいう山上に水あるを蹇となす。蹇の卦辞は『蹇は西南に利あり東北に利あらず』といい、孔子はこれを『西南に利あるは往きて功あるなり、東北に利あらざるはその道窮まるなり』と説く。往けば必ず蜀に勝つが、恐らくは帰れぬのではないか」と答え、鄧艾は憮然として楽しまなかったという(裴松之は卦辞の引用の細部について注記を加えている)。
  • 泰始元年、晋室が建国すると詔で「かつて太尉王凌は斉王の廃立を謀ったが王自身は帝位を守るに足らなかった。征西将軍鄧艾は功を誇り節を失い本来大辟に当たるが、召しに応じ配下を解散させ自ら罪を受けたことは、生を求めて悪をなす者とは異なる。今大赦し帰らせ、子孫なき者は跡継ぎを立てることを許し、祭祀を絶やさぬようにせよ」とされた。泰始三年、議郎段灼が上疏して鄧艾のために弁じた。要旨は次の通りである。鄧艾は至忠を懐きながら反逆の名を負い、巴蜀を平定しながら夷滅の誅を受けたことを哀悼し、その剛直な性格が朋輩と協調できず弁護されなかった事情、姜維の隴右分断策に備え屯田を整え自ら耕作を率いた実績、寡兵で強敵を破った落門・段谷の戦功、先帝が鄧艾を信任し廟算を委ねた経緯、身を捨てて蜀を降し劉禅君臣を面縛させた功、忠信でありながら鍾会に讒言され誅殺され首を市に晒され諸子も斬られた冤罪を述べ、秦の民が白起を、呉の民が伍子胥を哀れみ祠を立てた故事に天下が鄧艾を惜しむ心情をなぞらえ、その屍を収め田宅を返し孫に爵を継がせ棺に諡を定めることを願った。
  • 泰始九年、詔して「艾に功勲がありながら罪を受け刑を逃れず、子孫が奴隷の身分にあることを朕は常に哀れんでいる。その嫡孫の鄧朗を郎中とせよ」とされた。
  • 鄧艾が西方にあった時に築いた障塞・城塢は、泰始年間に羌族が大反乱を起こし刺史を殺し涼州の道が絶えた際にも、その塢に拠った吏民だけが安全であった。『世語』によれば咸寧年間、鄧艾の旧部下であった積射将軍樊震が武帝に鄧艾の忠を涙ながらに語ったことから、鄧艾の孫鄧朗は丹水令から定陵令に遷った。もう一人の孫鄧千秋は時望を集め光禄大夫王戎に掾として招かれたが、永嘉年間、鄧朗が新都太守として赴任前に襄陽で火事に遭い一族が焼死し(子の鄧韜と韜の子の鄧行のみ助かった)、千秋も先に卒し二子も焼死した。

州泰――鄧艾の同郷

  • 鄧艾の郷里で同世代であった南陽の州泰も功業を立てることを好み用兵に巧みで、官は征虜将軍・仮節都督江南諸軍事に至った。景元二年に没し衛将軍を追贈され諡は壮侯とされた。『世語』によれば、荊州刺史裴潜が州泰を従事に用い司馬懿にたびたび推挙したことで知られるようになり、孟達討伐にも従軍し辟召された。両親と祖父母を相次いで喪い九年の喪に服したが司馬懿は官職を空けて待ち、喪明けからわずか三十六日で新城太守に抜擢された。司馬懿の宴で尚書鍾繇が州泰に「布衣から宰府に登り三十六日で節旄を擁し軍郡を守るとは、乞食が小車に乗るようなものでなんと速いことか」とからかうと、州泰は「その通りだが、あなたは名公の子で若くして文才があり吏職を守るのみ、獼猴が牛に乗るようなものでなんと遅いことか」と切り返し、賓客はみな喜んだという。のち兖州・豫州刺史を歴任し治績を挙げた。