三國志卷二十六 滿田牽郭傳第二十六 牽招
安平観津の人、字は子経。袁尚に仕えたのち曹操に帰し、烏丸・鮮卑との交渉で機知を発揮した。文帝・明帝期に護鮮卑校尉・鴈門太守として辺境統治に長く従事し、諸葛亮と軻比能の連携をいち早く警戒した。
出自と義気
- 牽招、字は子経。安平観津の人。十余歳の時に同県の楽隠に学んだ。隠が車騎将軍何苗の長史となると招も従って卒業した。京都が乱れ苗・隠が害された際、招は隠の門生史路らと共に鋒刃を踏んで隠の屍を殯斂し喪を送って帰った。道中で寇鈔に遭い路らは皆逃げ散ったが、賊が棺の釘を取ろうとするのに招は涙を流して赦しを請い、賊はこれを義として釈し去った。これにより名を顕した。
袁氏から曹魏への帰属
- 冀州牧袁紹に督軍従事として招かれ烏丸突騎を兼領した。紹の舎人が令を犯した際、招は先に斬ってから紹に白し、紹はその意を奇として罪としなかった。紹が卒すると子の尚に仕えた。建安九年、太祖が鄴を囲むと尚は招を上党に遣わし軍糧を督致させた。招が還らぬうちに尚は敗走し中山に至った。当時尚の外兄高幹が并州刺史であり、招は并州が左に恒山の険、右に大河の固があり甲五万・北に彊胡を阻む地であることから幹に尚を迎え力を合わせ変を観るよう勧めたが、幹はできぬばかりか密かに招を害そうとした。招はこれを聞き間道で去り尚を追う道も塞がれたため東の太祖のもとへ赴いた。太祖が冀州を領すると招を従事に招いた。
柳城での機知
- 太祖が袁譚を討とうとした際、柳城の烏丸が譚を助けるため出兵しようとした。太祖は招がかつて烏丸を領していたことから柳城に遣わした。到着すると峭王が厳(部下)に五千騎を譚のもとへ遣わそうとしていた。また遼東太守公孫康が自ら平州牧を称し使者韓忠に単于印綬を持たせ峭王に授けさせようとした。峭王が群長を大いに集め忠も座にいる中、峭王は招に「昔袁公は天子の命を受けたとして我を単于に仮すると言った、今曹公はまた天子に白してから真の単于に仮すと言う、遼東はまた印綬を持ってきた、誰が正となるべきか」と問うた。招は「昔袁公は承制でその拝仮の権があった、しかし中間で違錯があり天子は曹公にこれに代わるよう命じ、天子に白してから真の単于に仮すというのはそれゆえに正しい、遼東は下郡でどうして擅に拝仮を称せようか」と答えた。忠は「我が遼東は滄海の東に拠り兵百万を擁し扶余・濊貊の力もある、当今の勢いでは彊者が右となるもの、曹操ひとりどうしてそうでいられようか」と述べたため、招は忠を叱り「曹公は允恭明哲、天子を翼戴し叛を伐ち服を柔らげ四海を寧静にしている、汝らの君臣は頑嚚にして今険遠を恃み王命に背き擅に拝仮しようとし神器を侮弄している、まさに屠戮に処されるべきなのになぜ大人を慢易し咎毀するのか」と呵り、忠の頭を捉えて地に叩きつけ刀を抜いて斬ろうとした。峭王は驚怖して跣で招を抱き忠のために救いを請い、左右も色を失った。招は座に戻り峭王らに成敗の効・禍福の帰趨を説き、皆席を下りて跪伏し勅教を敬受し、遼東の使を辞して厳した騎を罷めた。
魏国での戦功
- 太祖が南皮で袁譚を滅ぼすと招を軍謀掾に署し烏丸討伐に従わせた。柳城に至り護烏丸校尉に拝された。鄴に還ると遼東が袁尚の首を送り馬市に懸けたが、招はこれを見て悲感し首の下で祭祀を設けた。太祖はこれを義とし茂才に挙げた。漢中平定に従い太祖が還ると招を留めて中護軍とした。事が終わると鄴に還り平虜校尉を拝し兵を将いて青・徐州郡の諸軍事を督し東莱の賊を撃ちその渠率を斬り東土は寧静となった。
鮮卑校尉・鴈門太守としての治績
- 文帝践阼で使持節護鮮卑校尉を拝し昌平に屯した。当時辺民は山沢に流散し鮮卑の中に亡叛した者も千を数えていたが、招は広く恩信を布き招誘して降附させた。建義中郎将公孫集らが部曲を率い帰命すると本郡に還らせた。また鮮卑の素利・弥加ら十余万落を懐来しすべて塞に款せさせた。大軍が呉を征しようとした際に招は召還されたが軍が罷められたため右中郎将を拝し鴈門太守に出た。郡は辺陲にあり候望の備えはあったが寇鈔が絶えなかった。招は民に戦陣を教え烏丸五百余家の租調を復するよう表し鞍馬を備えさせ遠く偵候を遣わし、虜が塞を犯すたびに兵を勒して逆撃し来れば必ず摧破したので吏民の胆気は日々鋭くなり荒野に虞はなくなった。また構いて離間し虜を互いに猜疑させた。鮮卑の大人歩度根・泄帰泥らが軻比能と隙を生じ部落三万余家を率いて郡に附塞した際、招は還って比能を撃つよう命じ比能の弟苴羅侯や叛烏丸帰義侯王同・王寄らを殺し大いに怨讎を結んだ。招は自ら出て歸泥らを率い雲中の故郡で比能を討ち大破した。招は河西の鮮卑附頭ら十余万家を通じさせ陘北の故上館城を繕治し屯戍を置いて内外を鎮め、夷虜は大小ともに帰心し亡叛する者も親戚すら匿わずすべて収送された。野居は晏閉し寇賊は静息した。招は才識ある者を簡選し太学で学ばせ還って相授教させたため数年で庠序が大いに興った。郡の治所広武は井水が鹹苦で民は皆遠く流水を担い輦し往復七里であったが、招は地勢を望み山陵に因って原を鑿ち渠を開き城内に水を注ぎ民はその益に頼った。
軻比能討伐と諸葛亮への警戒
- 明帝即位で関内侯を賜った。太和二年、護烏丸校尉田豫が軻比能に故馬邑城で囲まれ招に救いを求めた。招は直ちに兵馬を整え豫を救おうとしたが、并州は常憲でこれを禁じたため招は「節将が囲まれているのに吏議に拘るべきでない」として自ら表し即座に行動した。羽檄を布して形勢を陳べ西北から虜家を掩取した後に東行し虜身を誅すると称すると檄が届いた豫軍は踊躍した。また一通を虜の要衝に遺すと虜は恐怖し種類は離散した。軍が故平城に至ると賊は皆潰走した。比能は再び大合して騎を来し故平州塞北に至った。招は密行して撲討し多くの首級を斬った。招は蜀虜諸葛亮がしばしば出兵し比能が狡猾で相通じ得ることを表して防備を求めたが議者は縣遠として信じなかった。亮が祁山にあった際、果たして使者を遣わし比能と連結し、比能は故北地石城に至り相い首尾した。帝は招に便宜に従い討たせる詔を下した。当時比能はすでに漠南に還っており、招は刺史畢軌と「胡虜の遷徙は無常、遠く師を労して追えば遅速が及ばない、潜襲するにも山溪が険しく資糧の転運も密かにはできない、新興・鴈門の二牙門を守らせ陘北に屯し外に鎮撫を示し内に兵田を令し資糧を儲畜し秋冬に馬が肥えれば州郡の兵を合わせ釁に乗じて征討すれば必ず全克できる」と議したが、実施に及ばぬうちに病没した。招は郡にあること十二年、威風は遠く振るった。その治辺の称は田豫に次ぐと言われ、百姓はこれを追思した。
牽招の子孫
- 招の子嘉が嗣ぎ、次子弘もまた猛毅で招の風があり隴西太守として鄧艾の蜀征伐に従い功があり、咸熙中に振威護軍となった。嘉は晋の司徒李胤と同母で早卒した。『晋書』によれば弘はのちに揚州・涼州刺史となり果烈をもって辺境で死事したと伝える。嘉の子秀、字は成叔。荀綽『冀州記』は秀に儁才あり性は豪俠で気があり弱冠で美名を得たこと、太康中に衛瓘・崔洪・石崇らに提携され新安令・博士から司空従事中郎となったこと、帝の舅である黄門侍郎王愷と互いに軽侮し合い、愷が司隷を諷して秀が夜に高平国守士田興の妻を車に乗せていたと誣奏させたが秀は表して誣陥の経緯を訴え愷の穢行を論じたため名誉を損なったこと、のち張華が長史に招き尚書に遷ったこと、河間王が秀を平北将軍・仮節としたが馮翊で遇害されたこと、世人がその辞賦を玩び才幹を惜しんだことを伝える。