三國志卷二十三 和常楊杜趙裴傳第二十三 裴潜

河東聞喜の人、字は文行(?–正始五年)。荊州から曹操に帰し、代郡太守として単于らを撫服し叛乱の芽を摘んで北辺を安定させた手腕で知られる。文帝・明帝期に尚書令等を歴任し清廉な生活で知られた。子の裴秀は西晋の名臣・地図学者として名を残した。

年表(2件)

出自と劉表評

  • 裴潜、字は文行。河東聞喜の人。荊州へ避乱し劉表は賓礼で待した。潜は密かに親しい王粲・司馬芝に「劉牧は覇王の才ではないのに西伯を自任している、その敗亡は遠くない」と語り、南の長沙へ移った。太祖が荊州を平定すると潜を丞相軍事に参じさせ三県の令を歴任させ倉曹属に入れた。太祖が「卿は前に劉備と共に荊州にいた、備の才略をどう見るか」と問うと、潜は「中国に置けば人を乱すことはできても治めることはできない、もし間隙に乗じ険を守れば一方の主にはなれる」と答えた。

代郡統治

  • 代郡が大乱の時、潜が代郡太守とされた。烏丸の王とその大人合わせて三人がそれぞれ単于を自称し郡事を専制していた。前太守は治正できず、太祖は精兵を授け鎮討させようとしたが、潜は「代郡は戸口が多く士馬控弦は万を数える、単于は久しく放横で内心不安を抱いている、多くの兵を率いて行けば必ず懼れて境を拒み、少なければ憚られない、計謀で図るべきで兵威で迫るべきでない」と辞し単車で郡に赴いた。単于は驚喜し、潜は静を以て撫し単于以下は脱帽稽顙し前後に掠奪した婦女・器械・財物をすべて返した。潜は単于と裏で通じていた郡の大吏郝温・郭端ら十余人を誅し、北辺は大いに震え百姓は心を寄せた。代に在ること三年、丞相理曹掾に還り、太祖が治代の功を褒めると潜は「私は百姓には寛にしても諸胡には峻であった、今理を評する者は必ず私を厳格すぎると見て寛恵を加えるだろうが、彼らは元来驕恣で寛に過ぎれば緩み、緩めば法で締め直すことになり、これが訟争の元になる、この勢いから見て代は必ず再び叛くだろう」と述べた。太祖は潜を還したのが早すぎたと深く悔いた。数十日後、三単于反乱の報が届き鄢陵侯彰が驍騎将軍として征討に赴いた。

文帝・明帝期

  • 沛国相に出て兗州刺史に遷った。太祖が摩陂に宿営した際、軍陣の整斉ぶりを称え特に賞賜した。文帝践阼で散騎常侍に入った。魏郡・潁川典農中郎将に出て貢挙を郡国並みに通じさせ農官の進仕の道を開いた。荊州刺史に遷り関内侯を賜った。明帝即位で尚書に入った。河南尹に出て太尉軍師・大司農に転じ清陽亭侯に封ぜられ邑二百戸。尚書令に入り分職を正し名実を料簡し官府で断ずべき事百五十余条を上奏した。父の喪で去官し光禄大夫を拝した。正始五年薨じ太常を追贈され貞侯と諡された。子の秀が嗣いだ。遺言で倹葬を命じ墓には一坐と瓦器数枚のみを置かせた。

裴潜の子孫――秀とその一族

  • 秀は咸熙中に尚書仆射となった。喪に服し終えると財を兄弟に譲った。二十五歳で黄門侍郎に遷り、曹爽誅殺後は故吏として免ぜられ衛国相に遷り散騎常侍・尚書仆射令・光禄大夫を歴任。咸熙中、晋文王が五等の爵を初めて建てた際、秀が制度を典り広川侯に封ぜられた。晋室受禅で左光禄大夫に進み鉅鹿公に改封、司空に遷った。易・楽論を著し地域図十八篇を画き世に伝わった。泰始七年、四十八歳で薨じ元公と諡され宗廟に配食された。子の頠が広川侯を襲封し、弘雅で遠識があり博学稽古、行いは高整で少くして名を知られ太子中庶子・侍中尚書を歴任、元康末に尚書左仆射となったが趙王倫に忌まれ枉害された。頠の子嵩、字は道文、中書郎となり早世した。頠の従弟の邈、字は景声、太傅司馬越の従事中郎となり仮節監中外営諸軍事とされた。潜の末弟の徽、字は文季、冀州刺史で高才遠度、玄妙を善く語った(荀粲・傅嘏・王弼・管輅の伝に事跡が見える)。徽の子の康・楷・綽らはいずれも名士として知られ、楷は才望が最も重く侍中中書令・光禄大夫・開府に至った。

『魏略』の合伝

  • 『魏略列伝』は徐福・厳幹・李義・張既・游楚・梁習・趙儼・裴潜・韓宣・黄朗の十人を同巻とするが、既・習・儼・潜の四人は本伝があり徐福の事は『諸葛亮伝』に、游楚の事は『張既伝』にある。残る厳幹・李義・韓宣・黄朗の四人が末尾に付される。厳幹(字公仲)・李義(字孝懿)はいずれも馮翊東県の単家の出で、乱世を経て馮翊が左内史郡と本郡に分かれた際、東郡の右職を歴任し孝廉に挙げられた。義は平陵令・冗従僕射から魏の尚書左仆射に至り、幹は蒲阪令から公車司馬令、弘農太守を経て益州刺史となり五官中郎将・永安太僕を歴任した。幹は春秋公羊を修め鍾繇(左氏を好む)としばしば論争した逸話が伝わる。韓宣、字は景然、勃海の人。臨菑侯植との道端での問答で機知を示した逸話(宰士の礼をめぐる問答)や、文帝が即位後にこの逸話を思い出し韓宣を杖罰から赦した逸話が伝わる。尚書大鴻臚に至り数年で卒した。黄朗、字は文達、沛郡の人。弘通で性実、父が本県の卒であったことに感じ游学に励んだ。長吏・長安令・魏令・襄城典農中郎将・涿郡太守を歴任し明帝の時に病没した。魚豢は李・張・韓・黄それぞれの美点を「至道」「度主」「識異」「抜萃」と評し、梁習・趙儼・裴潜の三人については張既・楊俊には及ばぬが検己の徳が老いてなお明らかであったと総括する。

史論

  • 評曰。和洽は清和幹理、常林は素業純固、楊俊は人倫行義、杜襲は温粋識統、趙儼は剛毅有度、裴潜は平恒貞幹、いずれも一世の美士である。中でも林(常林)が三司への昇進に心を繋がず大夫として告老したのは美事というべきである。