出自
- 杜襲、字は子緒。潁川定陵の人。曽祖父の安・祖父の根はいずれも前世に名を知られた。荊州へ避乱し劉表は賓礼で待した。同郡の繁欽が表にたびたび才を認められると、襲は「私が君と共に来たのは、龍が幽藪に蟠り時を待って鳳翔するためだ、劉牧が撥乱の主となり長者に身を委ねるべき人物と思ったわけではない、君がなお能力を示し続けるなら私の仲間ではない、絶交する」と諭し、欽は「謹んで命を受けます」と述べた。襲はのち南の長沙へ移った。
太祖への帰服と西鄂の防衛
- 建安初め、太祖が天子を許に迎えると襲は郷里に還り、太祖により西鄂長とされた。県は南境に接し寇賊が横行していた。長吏は皆民を城郭に集め農業ができずにいたが、襲は民に恩を結んでいることを知り老弱を各所の田業に分散させ丁壮のみ守備に留めたため吏民は喜んだ。荊州の歩騎万人が来攻した際、襲は拒守できる県吏民五十余人を召し誓を結んだ。外に親戚がいる者は自由に出させ、皆叩頭し死を誓った。襲自ら矢石の下に立ち力戦させ、臨陣で数百級を斬ったが襲の兵も三十余人が戦死、残る十八人は皆傷を負い賊は城に入った。襲は傷ついた吏民を率い囲みを破って脱出、死喪はほぼ全滅したが背く者はなかった。散じた民を収め摩陂の営へ徙し、吏民は慕って帰るように従った。
魏国での重用と直言
- 司隷鍾繇の表で議郎参軍事を拝した。荀彧も襲を推挙し太祖は丞相軍祭酒とした。魏国建国後、侍中となり王粲・和洽と並び用いられた。粲は博識で太祖の遊観に多く陪乗したが敬われる度合いは洽・襲に及ばなかった。襲がひとり見えて夜半に及んだ際、性急な粲が「公は杜襲に何を語られたのか分からない」と起き上がると、洽は笑って「天下の事に尽きるということがあろうか、君は昼間侍していれば十分、それをここで悒悒として兼ねようというのか」と答えた。のち襲は丞相長史を領し太祖の漢中討伐(張魯)に従った。太祖が還ると襲は駙馬都尉を拝し留まって漢中の軍事を督した。民を懐柔し洛・鄴への自発的な移住者は八万余口に及んだ。夏侯淵が劉備に討たれ軍が元帥を失い将士が動揺すると、襲は張郃・郭淮と共に諸軍を糾合し臨時に郃を督として一衆の心を一つにし三軍を安定させた。太祖の東還に際し留府長史として長安を鎮守すべき人選が難航する中、太祖は「騏驥(名馬)を放置してなぜ他を求めるのか」と述べ襲を留府長史とし関中に駐めた。
許攸への対応と夏侯尚への諫言
- 将軍許攸が部曲を擁し太祖に付かず慢言を吐いた際、太祖は激怒し討伐しようとした。群臣の多くが招懐すべきと諫めたが太祖は膝に刀を横たえ色を作し聞かなかった。襲が諫めようとすると太祖は「私の計はすでに定まった、言うな」と先に述べたが、襲は「殿下の計が正しければ私は助けて成し遂げます、誤りであれば成っても改めるべき、殿下が逆にこれを言うなと言われるのは、下の言を待たぬということでは」と述べた。太祖が「許攸は私を侮った、どうして許せよう」と言うと、襲は「殿下は許攸をどのような人物と見られますか」と問い、太祖が「凡人だ」と答えると、「賢は賢を知り聖は聖を知る、凡人がどうして非凡人を知り得ましょう、豺狼が道にあるのに狐狸を先に討てば、殿下が強を避け弱を攻める、進んでも勇でなく退いても仁でないと人は言うでしょう、千鈞の弩は鼷鼠のために発せず万石の鐘は莛で撞いて音を立てぬもの、区々たる許攸のために神武を労するに足りましょうか」と述べ、太祖は「善し」と述べ攸を厚く撫し攸は帰服した。当時夏侯尚が太子と親密であったが、襲は尚が益友でなく特別に待すべきでないと考え太祖に伝えた。文帝は当初不悦であったが後に追思した(詳細は『尚傳』にある)。その柔にして犯さぬ様はこの類であった。
晩年
- 文帝の王位就任で関内侯を賜り、践阼に及び督軍糧禦史となり武平亭侯に封ぜられ督軍糧執法に転じ尚書に入った。明帝即位で平陽郷侯に進封。諸葛亮が秦川に出た際、大将軍曹真が諸軍を督して拒む中、襲は大将軍軍師に徙り邑百戸を分け兄の基に関内侯を賜った。真が薨じ司馬宣王が代わると襲は再び軍師となり邑三百を増し前と合わせ五百五十戸。病により召還され太中大夫を拝した。薨じ少府を追贈され定侯と諡された。子の会が嗣いだ。