三國志卷二十一 王衛二劉傅傳第二十一 王粲

王粲(字は仲宣、?–217年)は山陽高平の名族の出身で、後漢の三公を輩出した家に生まれた。長安・荊州を経て曹操に仕え、侍中として旧儀の再興など制度整備を担い、博覧強記と文才で知られた建安文学随一の才人。建安七子の中心人物として徐幹・陳琳・阮瑀・應瑒・劉楨らと交わり、その周辺には嵇康・阮籍ら後代の文人の事跡も伝わる。

年表(12件)

出自

  • 王粲、字は仲宣。山陽高平の人。曾祖父の王龔・祖父の王暢はともに漢の三公(龔は太尉、暢は司空)を務めた名族で、暢は党人の「八俊」の一人として李膺と並び称され、水害を理由に罷免されたのち李膺の誅死とともに廃されて家で没した。『張璠漢紀』は龔の高名(山陽太守薛勤の喪の逸話、妻の喪に子らと杖を用いた逸話)を伝える。
  • 父の謙は大将軍何進の長史となった。何進は名門の子として自らの娘と謙の二子との婚を望んだが、謙はこれを断り、のち病で退官して家で没した。

劉表への依拠と曹操への帰順

  • 献帝の長安遷都に伴い粲も長安に移った。左中郎将蔡邕は幼く体も小さい粲を一目見て非凡と認め、来客中にもかかわらず倒履で迎え、「これは王公の孫、異才の持ち主、私の蔵書はすべて彼に譲る」と語った。十七歳で司徒に辟され黄門侍郎に任じられたが、長安の混乱を理由にいずれも就かず、荊州の劉表を頼った。表は粲の容貌が実を伴わず体も弱々しいことから重んじなかった(裴松之注:「貌寢」は容貌が実を裏切ること、「通侻」は簡易の意)。
  • 表の死後、粲は表の子琮に太祖への帰順を勧めた。『文士伝』は粲が琮に対し、天下大乱の中で先を見通す者が福を受けること、曹公が官渡で袁氏を破り孫権を江外に、劉備を隴右に逐い、白登で烏丸を破るなど神のごとき戦功を挙げていることを説き、降伏こそ万全の策と説得し、琮がこれに従った経緯を詳しく伝える。
  • 太祖は粲を丞相掾に辟し関内侯を賜った。漢水のほとりでの酒宴で粲は太祖に杯を捧げ、袁紹は賢者を用いられず士を失い、劉表は荊楚に拠りながら人材を用いず国を危うくしたのに対し、太祖は冀州平定後ただちに賢才を用い、江漢平定後もこれを重用して天下を治めたと称え、三王(夏殷周の始祖)の挙業になぞらえた。

曹操政権下での活躍

  • 粲はのち軍謀祭酒に遷り、魏国建国後は侍中を拝した。博識で問われて答えられぬことがなく、旧儀が廃れていた制度の復興を常に担った。『摯虞決疑要注』は、漢末の喪乱で玉佩の製法が絶えていたのを侍中王粲が旧制を知り初めて再興したこと、当代の玉佩の制はすべて粲に由来することを伝える。

博識と最期

  • 粲は同行者と道端の碑文を読んだ後、一字も違えず暗誦できた。囲碁の局が崩れても復元し、他の局で試させても一路も誤らなかったほど記憶力に優れ、算術にも通じ、その術理をほぼ究めた。文才にも優れ筆を執ればたちまち文が成り訂正を要さないため、当時の人はあらかじめ作っていたものと疑ったが、実際に熟考して作らせても及ばなかった。『典略』は粲の才の高さと機転のよさを称え、鍾繇・王朗ら魏の卿相ですら朝廷の奏議では粲に及ばなかったと伝える。粲は詩・賦・論・議あわせて六十篇近くを著した。
  • 建安二十一年(216年)に呉征討に従軍し、翌二十二年(217年)春、道中で病没した。享年四十一。二子は魏諷の謀反に連座して誅殺され、家系は絶えた。『文章志』は、太祖が漢中征討中に粲の子の死を聞き「私が生きていれば仲宣を後継ぎなきままにはしなかった」と嘆いたと伝える。

王粲と建安七子

  • 文帝が五官中郎将、平原侯曹植とともに文学を好んだ当時、粲は北海の徐幹(字偉長)、広陵の陳琳(字孔璋)、陳留の阮瑀(字元瑜)、汝南の應瑒(字徳璉)、東平の劉楨(字公幹)と親しく交わった。

附・徐幹

  • 幹は司空軍謀祭酒掾属、のち五官中郎将の文学となった。『先賢行状』は、幹が清らかで道に体し六行を備え、聡明で見聞広く、官禄を軽んじて世栄に耽らなかった人柄を伝える。建安中、太祖は特に旌命を加えたが病により休職し、のち上艾長に任じられたがこれも病で赴任しなかった。

附・陳琳

  • 琳は当初何進の主簿であった。何進が宦官誅滅を図り、太后が聞かず四方の猛将を招いて脅そうとした際、琳は「鹿を追うのに案内役なしでは得られぬ」「目を掩って雀を捕らえる」との喩えを引き、大事を軍閥を招いて決するのは危険であり、速やかに権断すべきだと諫めたが、進はこれを容れず禍を招いた。
  • 琳は冀州に難を避け、袁紹に文章を任された。袁氏敗北後は太祖に帰した。太祖は「お前がかつて本初(袁紹)のために書いた檄文は私を罪するだけでよかったのに、なぜ父祖にまで及んだのか」と問うたが、琳が謝罪すると太祖はその才を愛して咎めなかった。

附・阮瑀

  • 瑀は若くして蔡邕に学んだ。建安中、都護曹洪が書記に用いようとしたが屈しなかった。太祖は琳・瑀をともに司空軍謀祭酒として記室を管掌させた。『文士伝』は、太祖が瑀の名を聞いて招いたが応じず山中に逃げ込み、太祖が山を焼かせて捕らえたこと、長安征討の際に大宴で瑀を軽んじて伎人の列に加えたが、瑀が弦を撫でて即興の歌を作り座を驚かせ太祖を喜ばせた逸話を伝える(歌の一節「奕奕天門開、大魏應期運…」)。裴松之は、この逸話が魚豢『典略』・摯虞『文章志』の記す「瑀は建安初年に疾を称して曹洪の招きを拒み、太祖の召しにはただちに応じた」という記録と矛盾し、歌の内容(「大魏應期運」は太祖が魏公になった建安十八年より後の語)や瑀の没年(建安十七年)とも齟齬することから、張隲の記述の誤りと断じている。
  • 軍国の書檄の多くは琳・瑀の手になった。『典略』は、太祖が持病の頭痛に苦しんでいた折、琳の作った檄文を読んで痛みが和らいだと喜び厚く賞したこと、瑀が馬上で即座に韓遂への書を書き上げ太祖が添削の余地がなかったことを伝える。琳はのち門下督、瑀は倉曹掾属に転じた。

附・應瑒・劉楨

  • 瑒・楨はともに太祖に辟され丞相掾属となった。瑒はのち平原侯庶子、五官中郎将文学に転じた。『華嶠漢書』は瑒の祖父應奉(字世叔、五行倶下の速読で知られ司隷校尉に至る)、その子應劭(字仲遠、『風俗通』など百余篇を著し博聞で知られ泰山太守に至る)、劭の弟應珣(字季瑜、瑒の父)の家系を伝える。
  • 楨は不敬の罪で刑を受けたが、刑期後も吏として署された。『文士伝』は楨の父應梁(字曼山、清才で文学に優れ野王令で終わる)を伝え、『典略』は文帝が楨に廓落帯を賜った後、師の死に際してそれを像に用いるため借りようとし戯れの書を送ったのに対し、楨が荊山の璞や随侯の珠などの故事を引いて巧みに応じた逸話を伝える。楨はのちに、太子(曹丕)が文学の士を招いた宴で夫人甄氏を拝させた際、一同が伏する中で独り正視したことから太祖に咎められ、死一等を減じて労役に落とされた。楨は文賦数十篇を著した。

建安七子への評価(曹丕の書簡と『典論』)

  • 瑀は建安十七年(212年)、幹・琳・瑒・楨は建安二十二年(217年)に相次いで没した。文帝は元城令呉質への書で、疫病により親故が多く災いに遭う中、この四子が同時期に世を去ったことを悼み、「古今の文人は概して細行を慎まぬものだが、偉長(徐幹)は文を懐き質を抱き恬淡寡欲で箕山の志を持つ君子だった」「徳璉(應瑒)は志を遂げられず惜しい」「孔璋(陳琳)は章表に優れるがやや繁富」「公幹(劉楨)は逸気があるが未だ遒(力強さ)に至らず」「元瑜(阮瑀)の書記は軽快で楽しい」「仲宣(王粲)は辞賦に長じるが体が弱く、その得意とする分野では古人にも劣らない」と評し、鍾子期を失った伯牙、子路を失った孔子の悲しみになぞらえた。
  • 『典論』は、当代の文人として魯国の孔融、広陵の陳琳、山陽の王粲、北海の徐幹、陳留の阮瑀、汝南の應瑒、東平の劉楨の七人(建安七子)を挙げ、それぞれの文才を論評する。粲は辞賦に長じ、幹は逸気があるが粲には及ばない。粲の「初征」「登楼」「槐賦」「征思」、幹の「玄猨」「漏巵」「圓扇」「橘賦」は張衡・蔡邕にも劣らないが、他の文章はそこまでではない。琳・瑀の章表書記は当代随一、應瑒は和やかだが壮大さに欠け、劉楨は壮大だが緻密さに欠ける。孔融は気品が高いが議論には向かず、揚雄・班固の流れに近いとする。

附・邯鄲淳・繁欽・路粹・丁儀・丁廙・楊脩・荀緯

  • 潁川の邯鄲淳(一名笁、字子叔)は博学で蒼頡篇・爾雅・虫書・篆書・許慎の字学に通じ、荊州から太祖に召され、五官中郎将(文帝)が招こうとしたが、臨菑侯曹植も淳を求めたため太祖は淳を植に遣った。植は淳を厚遇し、雑戯や武芸を披露したのち古今の聖賢・文章・用兵を縦横に論じ、淳は退出後「天人」と評した。太祖はこの頃植への継嗣の意を持ちつつあり、淳がしばしば植の才を称えたことで五官中郎将は不快に思ったという。黄初初め、淳は博士給事中となり「投壺賦」を奏して文帝に称賛され帛千匹を賜った。
  • 繁欽(字休伯)は文才と機弁で汝潁に知られ、書記・詩賦に長じ、太子への書簡は巧麗であった。丞相主簿となり建安二十三年(218年)に没した。
  • 陳留の路粹(字文蔚)は蔡邕に学び、建安初年に才学で厳象とともに尚書郎に抜擢された。のち軍謀祭酒として陳琳・阮瑀らと記室を典じ、孔融弾劾の奏文を太祖の意を受けて起草しその罪状を詳細に書き連ねた。孔融誅殺後、人々はその才を評価しつつもその筆を畏れたという。祕書令に転じたが十九年(214年)、禁を犯して驢馬を請うた罪で処刑された。太子(曹丕)は粹と親しく、その死を悼んで子を長史に用いた。
  • 魚豢は、王粲・繁欽・阮瑀・陳琳・路粹らの文才が魯仲連・鄒陽の弁才に劣らぬのに世に重んじられなかった理由を大鴻臚韋誕に問い、「仲宣(粲)は肥満で愚鈍に見え、休伯(繁欽)は謹みがなく、元瑜(瑀)は体が弱く、孔璋(琳)は粗略、文蔚(粋)は性急」との評を得たと伝える。
  • 沛国の丁儀・丁廙、弘農の楊脩、河内の荀緯もまた文才があったが七子には数えられない。丁儀・丁廙・楊脩の事跡は「陳思王(曹植)伝」に見える。荀勗『文章叙録』は荀緯(字公高)が建安中に軍謀掾・魏太子庶子から散騎常侍・越騎校尉に至り、黄初四年(223年)四十二歳で没したことを伝える。

附・應璩

  • 應瑒の弟應璩とその子應貞はともに文章で名を知られた。璩は官は侍中に至り、貞は咸熙中に相国軍事に参与した。『文章叙録』は、璩(字休璉)が博学で文章と書記に優れ、文帝・明帝朝に散騎常侍を歴任、斉王即位後に侍中・大将軍長史に遷り、曹爽の秉政下で法度違反を諷刺する詩を作り時人に伝えられたこと、のち侍中として著作を典じ嘉平四年(252年)に没して衛尉を追贈されたことを伝える。貞(字吉甫)は正始中に夏侯玄の座で五言詩を作り玄に称賛され、晋の武帝が撫軍大将軍だった頃その参軍となり、晋室成立後は太子中庶子・散騎常侍に遷り、荀顗と新礼を撰定したが未施行のまま泰始五年(269年)に没した。

附・阮籍

  • 阮瑀の子阮籍は才藻に富み倜儻放蕩、荘周を模範とし、官は歩兵校尉に至った。『魏氏春秋』は籍が礼俗に拘らず孝心篤い一方で喪の作法を守らず毀ち身を損ねたこと、兖州刺史王昶や太尉蒋済がその器量に感嘆したこと、曹爽の参軍となったが病で辞し、爽誅殺後は司馬氏の招きにも「乱世に禄仕するのみ」として歩兵校尉(美酒が多いことで知られる職)を求め酒に耽って世事を顧みなかったこと、広武で楚漢の戦跡を見て「時に英才なく豎子に名を成さしめたか」と嘆いたこと、蘇門山の隠者との長嘯の応酬の逸話を詳しく伝える。
  • 籍は人の過ちを口にせず自然に高邁であったため、礼法の士何曾らに深く憎まれたが、大将軍司馬昭は常に籍を庇護し、籍は天寿を全うした。子の渾(字長成)は閑澹寡欲で名を知られ太子庶子となったが早世した。

附・嵇康

  • 譙郡の嵇康は文辞壮麗で老荘を好み奇行任侠を好んだが、景元中(260-264年頃)に事に坐して誅された。『嵇氏譜』によれば父は嵇昭(字子遠、督軍糧治書侍御史)、兄は嵇喜(字公穆、晋揚州刺史・宗正)で、喜が著した康の伝は、康が儒学の家に生まれ俊才で人と群れず高潔で寛簡、師なくして博学、老荘を好み恬静無欲、服食を好み神仙は自然の禀性であり学んで得るものではないと考えたこと、上古の聖賢隠逸百十九人の伝賛を編んだこと(混沌から管寧まで)を伝える。虞預『晋書』は嵇氏がもと会稽の奚氏で譙の銍県に遷って嵇山にちなみ改姓したと伝える。
  • 『魏氏春秋』によれば康は河内山陽県に寓居し、陳留の阮籍・河内の山濤・河南の向秀・阮籍の甥阮咸・琅邪の王戎・沛の劉伶と竹林に遊び「竹林七賢」と号された。鍾会が名を慕って訪ねたが康は無礼にこれに応じず、「何を聞いて来て何を見て去るのか」と問い返し、会は深く恨みを抱いた。大将軍(司馬昭)が康を招こうとした際、康は俗世を絶つ意を明らかにし河東に避け、山濤が選曹郎として康を後任に推薦した際も書を送って拒絶し湯武を非難したため、大将軍は怒った。
  • 呂安の妻を巽(呂安の兄)が姦通し、逆に安を不孝の罪で誣告し投獄した事件で、康は安のため潔白を証明しようとして連座し、鍾会の勧めで大将軍により安とともに誅殺された。康は刑に臨んで動じず、琴を弾じて「広陵散はここに絶える」と嘆じ、時人は皆これを哀しんだ。汲郡の隠者孫登との出会いと、「子は才多く識寡し、今の世を免れ難い」との言、呂安事件後に康が悔恨を込めて作った詩、康の別伝・『晋陽秋』が伝える孫登との長嘯の逸話などを、裴松之は各書の異同とともに詳しく紹介する。
  • 裴松之は、康の誅殺の時期について本伝が景元中とする一方、干宝・孫盛・習鑿歯らの書が正元二年(255年)、司馬昭が樂嘉から帰る途中に康・安を殺したとする異説を検討し、山濤の吏部郎就任年(景元二年)などの記録から本伝の景元説を妥当と判断している。
  • 康の子紹(字延祖)は幼くして知られ、山濤の推薦で秘書郎となり、のち顕職を歴任した。『晋諸公賛』は紹が忠正の情に厚く、侍中として恵帝の北伐に従い、王師敗退の中で独り帝を守って戦死し、太尉を追贈され「忠穆公」と諡されたことを伝える。

附・桓威

  • 景初中(237-239年)、下邳の桓威は微賤の出身ながら十八歳で『渾輿経』を著し、道に依って意を示した。斉国の門下書佐・司徒署吏を経て安成令となった。

附・呉質

  • 呉質は済陰の人で文才により文帝に重んじられ、官は振威将軍・仮節都督河北諸軍事に至り列侯に封じられた。『魏略』は質(字季重)が才学に通じ五官中郎将や諸侯に礼遇され、兄弟のように振る舞ったこと、劉楨らが咎めを受けた際に質は朝歌長、のち元城令に転じたことを伝える。
  • 太子(曹丕)の孟津遠征中の書、二十三年(218年)の書、王位継承後の書と、質への長い書簡三通の内容が引かれる。いずれも南皮での交遊の追憶、徐幹・陳琳・應瑒・劉楨ら早世した友への哀惜、元瑜(阮瑀)の死への言及など、文帝の質への深い友情を伝えるもので、裴松之は本伝が省略した美辞を『魏略』から全て補ったと注記する。
  • 曹真・曹休も質と渤海で交遊した仲だったが、二人は宗親として列将に封じられたのに対し質は長史のままだったため、王(文帝)は質の不満を察して両者を挙げて慰めた。質はもと単家(有力氏族でない家)の出身で郷里に軽んじられていたが、文帝の即位後に召されて北中郎将・列侯・使持節督幽并諸軍事となり信都を治めた。『世語』は文帝の世子時代、曹植が功徳を称える言葉を見事に述べ左右の目を引いたのに対し、文帝が呉質の耳打ちで「涙を流すのがよい」と助言され、辞去の際に涕泣して人々の心を得た逸話を伝える。
  • 『質別伝』は帝が質と曹休を召して郭皇后に引き合わせた親密さや、黄初五年(224年)の朝見時、質が曹真・朱鑠を諧謔で辱め剣を案じて対立した騒動を伝える。文帝崩御の際、質は追慕の詩を作った。太和四年(230年)に侍中となり、司馬懿を「忠智至公の社稷の臣」、陳羣を「相の才にあらず」と評したことが帝に容れられたが、質の死後この評は実を伴わなかったとされる。質はその年の夏に没し、生前の横暴により「醜侯」と諡されたが、子の應の上書により正元中に「威侯」と改諡された。應(字温舒)は晋の尚書、應の子康(字子仲)も高位に至った。