三國志卷十八 二李臧文呂許典二龐閻傳第十八 呂虔

泰山平定

  • 呂虔、字は子恪。任城の人。太祖が兗州にあった頃、虔の胆策を聞き従事とし家兵で湖陸を守らせた。襄賁校尉杜松配下の民炅母らが昌豨と通じ反乱を起こすと、太祖は虔を松に代えた。虔は炅母の渠率と同悪の数十人を招き酒食を賜り、壮士を伏せさせ酔ったところを悉く討ち取り群賊を平定した。太祖は虔に泰山太守を領させた。郡は山海に接し世乱で民が多く隠れ潜んでいたが、袁紹配下の中郎将郭祖・公孫犢ら数十輩が山に拠って寇となり百姓を苦しめていた。虔が家兵を率いて赴き恩信を布くと祖らはみな降服し、山中の逃亡者もみな出て安業した。強者を選んで戦士とし泰山は精兵を擁し州郡随一となった。
  • 済南の黄巾徐和らが各地で長吏を劫し城邑を攻めた際、虔は夏侯淵と共に討ち数十戦して斬首・捕虜数千を得た。太祖は虔に青州諸郡兵を督させ東莱の群賊李条らを討たせ功をあげた。太祖は令して「志あれば必ず事を成す、これは烈士の徇うところだ。君は郡にあって以来奸を禽え暴を討ち百姓は安を得た、自ら矢石を冒しても征するところ必ず克つ、昔の寇恂が汝・潁に、耿弇が青・兗に名を立てたのと同じだ」と述べた。虔は茂才に挙げられ騎都尉を加えられ郡を治め続けた。虔は泰山に十数年あり大いに威恩があった。

別駕王祥の登用

  • 文帝の魏王即位で虔は裨将軍を加えられ益寿亭侯に封ぜられ徐州刺史に遷り威虜将軍を加えられた。琅邪の王祥を別駕に請い民事を一切委ねたところ、世は虔の任賢の能を称えた。
  • 孫盛『雑語』によれば、王祥、字は休徴。至孝の性で、後母は苛虐にも祥を害そうとしたが祥は色を変えず孝養を尽くした。厳寒の折、後母が生魚を望んだ際、祥は衣を脱ぎ氷を割って求めようとしたところ、堅氷が自ら解け魚が躍り出て、これを供したという逸話が孝感の致すところとされた。祥は三十余年母に仕えた後に出仕、淳誠貞粋で世に重んじられた。王隠『晋書』によれば、祥は出仕したとき既に五十を過ぎており、次第に司隷校尉に昇進。高貴郷公が入学した際は三老に任じられ、司空・太尉に遷った。司馬文王(司馬昭)が晋王となった初め、司空荀顗が祥に敬意を尽くすよう求めたが祥は従わなかった(詳細は「三少帝紀」に見える)。晋の武帝践阼で太保を拝し睢陵公に封ぜられ、泰始四年、八十九歳で薨じた。祥の弟の覧、字は玄通、光禄大夫(『晋諸公賛』は覧を率素にして至行ありと称える)。覧の子孫は繁栄し賢才が相継ぎ、その盛んなことは古今稀であるという。

晩年

  • 虔は利城の叛賊討伐に功をあげた。明帝即位で万年亭侯に徙封され邑二百を増し前と合わせ六百戸。虔は薨じ、子の翻が嗣いだ。翻が薨じ子の桂が嗣いだ。