敦煌太守としての善政
- 倉慈、字は孝仁。淮南の人。もと郡吏で、建安中に太祖が淮南で屯田を募った際に綏集都尉となり、黄初末に長安令として清廉な統治で吏民に畏敬された。太和中に敦煌太守に転じた。同郡は西陲にあり乱後二十年も太守を欠き大族が専横していたが、前任の尹奉らは旧例を踏襲するだけであった。慈は権門を抑え貧弱を撫恤し、大族の余った田地を割いて小民に配分し公正な代価で購わせた。従来滞留していた訴訟を自ら審理し、死罪以外は鞭杖のみで処理して一年の断獄が十人に満たなかった。西域の胡人が貢献に来る際も豪族が貿易を妨げ欺瞞していたのを、慈は公正に労い、洛陽に行く者には過所を発行し、郡に帰る者には官物で交易させ護送させた結果、民・夷ともにその徳を称えた。数年で任地に没すると吏民は肉親を失ったように悲しみ肖像を描いて偲び、西域の諸胡も戊己校尉や長吏の治所に集まって哀悼し、中には刀で顔を傷つけて血の誠を示す者もあり、祠を立てて遥かに祀った。
- 『魏略』は後任の太守が慈に及ばなかったこと(天水の王遷、金城の趙基)、嘉平中に安定の皇甫隆が敦煌太守となり灌漑法・耧犁の耕作法を教えて労力を半減させ収穫を五割増やし、婦人の裙の布地節約も指導した治績を伝え、皇甫隆は厳毅さでは慈に及ばないが勤勉と民への利益では次ぐと評されたとする。
良二千石たちの略伝
- 太祖から咸熙年間まで、魏郡太守陳国の呉瓘、清河太守楽安の任燠、京兆太守済北の顔斐、弘農太守太原の令狐邵、済南相魯国の孔乂はいずれも憐憫の情で獄を裁き、誠実で恵み深く、身を清く保ち奸を摘発するなど良二千石とされた(呉瓘・任燠の事績は伝わらない)。
- 『魏略』によれば顔斐(字文林)は学才で太子洗馬から黄門侍郎、京兆太守となり、馬超の乱後荒廃していた京兆で阡陌を整え桑果を植えさせ、月替わりで車の材を課して大工の技を教え合わせ、牛のない者には豚犬を飼わせて売り牛を買わせた。学問を興し、租税納入時に薪を課して冬の暖に備えさせるなど風化が大いに行われ、京兆は雍州十郡随一の豊かさとなった。司馬懿(宣王)が長安に軍市を立てた際、その吏士が県民を侵した件を斐が告げると、宣王は軍市候を斐の前で杖罰したが、典農官が斐に謝意を示すよう勧めたのを斐は「明公は分陝の任として公平を期しているだけ、典農官の勧めは却って明公の意に反する」として拒んだ。後に平原太守に転じると吏民は道を塞いで泣き引き留め、赴任途上で病篤くなっても京兆を思い続けたまま没した。
- 令狐邵(字孔叔)は父が烏丸校尉を務めた家柄で、太祖が鄴を破った際に捕らえられたが父の縁で助命され軍謀掾から弘農太守を歴任、清廉で学を興した。族子の令狐愚が「徳を修めず大志だけを抱く、必ず我が宗を滅ぼす」と評していたところ、後に愚は兗州刺史として王凌の廃立の謀に加わり一族誅滅されたが、邵はすでに没していたため連座を免れた。
- 孔乂(字元俊)は孔子の後裔で、曾祖父孔畴は陳相として桓帝の老子廟に孔子像を刻んだ碑を立てた。散騎常侍として上疏規諫し、大鴻臚に至った。子の恂(字士信)は晋の平東将軍・衛尉となった。
史論
- 評に曰く、任峻は義兵に応じて太祖に帰し、土地を開いて穀を蓄え倉庾を満たした功績は大きい。蘇則は威をもって乱を平らげ、政の良さに加え剛直の気骨は称賛に値する。杜畿は寛猛を兼ね備えて民を安んじた。鄭渾・倉慈はいずれも道理をもって民を治めた。みな魏代の名太守と言えよう。杜恕はしばしば時政を論じ治国の道を説いており、見るべきものがある。