三國志卷十六 任蘇杜鄭倉傳第十六 鄭渾

出自と若き日

  • 鄭渾、字は文公。河南開封の人。高祖父の鄭衆・その父鄭興はいずれも名儒として知られた。兄の鄭泰は荀攸らと董卓誅殺を謀り、揚州刺史となったが赴任前に没した。『張璠漢紀』は泰の若き日から詳しく伝え、家産を蓄えながら食が常に足りないほど豪傑と交わり、何進に「董卓を頼るべきでない」と諫めるも用いられず、董卓政権下でも「兵より徳による統治を優先すべき」と説いて義兵鎮圧の意欲を十ヶ条の理由で削がせ、後に王允と共に卓誅殺を謀ったが露見して武関から脱出し、最終的に揚州刺史に任じられながら赴任の途上四十一歳で没したと記す。
  • 渾は泰の幼い子袤を連れて淮南に難を避け、袁術に厚遇されたが術の敗亡を見抜き、豫章太守で泰と親しかった華歆を頼って渡江した。太祖はその篤実を聞いて掾に召し、下蔡長・邵陵令に転じさせた。天下未定の中、民は子を育てず捨てる者が多かったが、渾は漁猟の道具を取り上げて耕桑を課し稲田を開かせ、間引きを重罰にした。民は当初これを畏れたが後に豊かになり、生まれた男女の多くに「鄭」の字が名付けられたという。丞相掾属に召され、左馮翊に転じた。

地方官としての治績

  • 梁興らが吏民五千余家を略して寇となった際、諸県は防げず郡治へ避難しようとしたが、渾は「賊は破散して山中に逃げ込んでいるだけ、多くは脅されて従っているに過ぎない。今険地に籠れば弱さを示すことになる」として城郭を整え守りを固め、降路を開いて恩信を示し、賞罰を明らかにして討伐すると獲得物の七割を賞として与えた。民は喜んで捕賊に協力し、妻子を奪われた者は次々と降を求めた。渾はこれに応じて降者を保護し、賊党は離散した。恩信ある吏を山中に派遣して招諭し、諸県の長吏を本任に戻して安集させた。梁興らは恐れて鄜城に集結したが、太祖が夏侯淵を派遣して助勢させ、渾は吏民を率いて先登し興とその党を斬った。さらに靳富ら、夏陽長・邵陵令を脅して硙山に籠った賊も討ち破り二県の長吏を奪還、趙青龍が左内史程休を殺した際も壮士を送って首を挙げさせた。前後に帰附した者四千余家に及び、山賊は平らげられ民は生業に安んじた。上党太守に転じた。
  • 太祖の漢中征討では渾を京兆尹とし、新たに集まった百姓のため戸籍を組み合わせる移居の法を定め、農耕を勧め禁令を明らかにして奸を摘発させた。大軍が漢中に入ると軍糧の輸送は最優と評され、漢中への民の屯田募集も逃亡者を出さなかった。丞相掾に召し戻された。
  • 文帝の即位で侍御史・駙馬都尉、陽平・沛郡二郡太守を歴任。低湿で水害に悩む郡内の蕭・相二県境に陂堰を築いて稲田を開き、「地勢は低くとも灌漑すれば魚稲の利がある」と自ら吏民を率いて一冬で完成させ、収穫は年々増し租入は倍増、民はこれを「鄭陂」と刻石で頌えた。山陽・魏郡太守に転じても同様の治績を挙げ、材木に乏しい郡では民に楡の垣根と五果の植樹を課し、実り豊かな村を作った。魏郡では村落が整然と一様になり、民は財に不自由しなくなった。
  • 明帝はこれを聞いて詔で称揚し天下に布告、将作大匠に転じた。渾は公にあって清廉を貫き、妻子は飢寒を免れないほどであった。没後、子の崇が郎中となった。『晋陽秋』は泰の子袤(字林叔、華歆・荀攸と親しかった泰の遺児)が臨菑侯文学から光禄大夫に至り、泰始七年に司空を固辞して家で没したこと、その子默(字思玄)が家業を守って太常に至り、默の弟質・舒・詡もみな九卿となり、默の子球・豫が尚書右僕射・尚書に至ったことを伝える。