三國志卷十六 任蘇杜鄭倉傳第十六 杜畿
杜畿(字は伯侯、京兆杜陵の人)は、漢の御史大夫杜延年の後裔。継母に苦しめられながらも孝行で知られ、荀彧の推薦で河東太守となり、単身赴任して衛固・范先の叛乱を鎮め、以後十六年にわたり河東を治めて天下第一の太守と評された。文帝朝では尚書・司隷校尉などを歴任したが、御楼船の試船中に転覆して水死した。子の杜恕も官として活躍したが後に弾劾され配流先で没した。
出自と若き日
- 杜畿、字は伯侯。京兆杜陵の人で、漢の御史大夫杜延年の後裔。幼くして父を失い継母に苦しめられたが孝行で聞こえた。二十歳で郡功曹となり鄭県令を代行、数百人の囚人を自ら裁いて速やかに解決し、若くして大局を捉える器量を郡中に評価された。孝廉に挙げられ漢中府丞に除せられたが天下大乱により官を棄てて荊州に寓居し、建安年間に帰還した。
- 荀彧が畿を太祖に推薦した。『傅子』は、畿が荊州から許に至り侍中耿紀と語り明かした夜、隣家の尚書令荀彧がその言葉を聞いて驚き、耿紀に「国士を進めないでどうする」と伝え、旧知のように畿に接し朝廷に推挙した経緯を記す。太祖は畿を司空司直とし、のち護羌校尉・持節・西平太守に転じさせた。
- 『魏略』によれば、畿は荊州から継母の喪を負って北帰する途上、賊に略奪されかけたが独り逃げず「財が欲しいだけなら我を射て何になる」と説いて事なきを得た。京兆尹張時が功曹に任じたが、畿の闊達さを「疎誕で功曹には向かない」と評したのに対し、畿は密かに「功曹には向かなくとも河東太守には向く」と語ったという。
河東太守としての赴任
- 太祖が河北を平定すると高幹が并州で反乱を起こした。河東太守王邑が召還される中、衛固・范先は表向き王邑の留任を求めながら内実は高幹と通じていた。太祖は荀彧に「河東は要地、萧何・寇恂のような人物で鎮めたい」と問い、彧は「杜畿こそその人」と応じた。『傅子』は彧が畿の勇気と智謀の応変力を保証したと伝える。
- 畿は追って河東太守を拝したが、衛固らが陝の渡し場を数千の兵で断ち渡れなかった。太祖は夏侯惇の討伐軍を派遣したが、畿は「大軍を待てば河東三万戸すべてが乱に与するわけではないのに、圧迫すれば善良な民まで固らに従わざるを得なくなる。単身で不意を突けば、計略に長け決断力に欠ける固は必ず偽って我を受け入れるだろう」と考え、間道の郖津から渡った。
- 『魏略』は畿と衛固がかつて博打で争った旧知の間柄であったこと、また畿を殺して威を示そうとする范先に対し門下で主簿以下三十余人が斬られる中でも畿が動じなかったこと、固が「殺しても益なく悪名を得るだけ、実権は我にある」と制した経緯を伝える。畿は固・先に「成敗は共にする、大事は共議しよう」と諭し、固を都督・行丞事・領功曹、範先の指揮下に将校吏兵三千余人を置いた。固らは喜び油断した。
- 固が大兵を発しようとしたとき、畿は「非常の事を行うには人心を動かすべきでない、徐々に資財で募兵すべき」と説いて時間を稼ぎ、さらに「諸将掾吏を分散休息させよ、急なら容易に召集できる」と勧めて兵を分散させた。善人は外に出て畿の援けとなり、悪人は各々帰宅して衆は離散した。白騎が東垣を攻め高幹が濩沢に入り上党諸県が乱れる中、畿は単騎数十で張辟に赴き城を固め、附する吏民数十日で四千余人を得た。固らは高幹・張晟と共に攻めたが落とせず、太祖の大軍が至って幹・晟が敗れると固らは誅殺され、残党は赦されて元の生業に復した。
治績と信望
- 河東は乱後もっとも早く安定し、消耗も少なかった。畿は寛恵を旨とし民事に無為を貫き、訴訟には大義を説いて熟考を促し、郷里の父老が互いに責め合うほど人々が畿の教えに従い訴訟は減った。孝子・貞婦・順孫を挙げて課役を免じ、牛馬から鶏豚に至るまで飼育に章程を定め、民は勤農に励み家々が豊かになった。「民が富んだ、次は教えねばならない」として冬に武を講じ、学宮を開いて自ら経書を教授し、郡中が感化された。博士楽詳もこの頃畿によって登用された。
- 韓遂・馬超の叛乱で弘農・馮翊が多く応じる中、河東は賊と接しながら異心を抱かなかった。太祖の蒲阪出陣に際し軍糧は河東が支えきり、賊が破れた後も余った穀は二十余万斛に及んだ。太祖は「杜畿は孔子が禹を評した『間然する所なし』の人物」と称え中二千石に加秩した。太祖の漢中征討では輸送に赴いた者が「一死を惜しまず府君に背かぬ」と誓い一人の逃亡者も出なかった。『杜氏新書』は、平虜将軍劉勲が畿に大棗を求め断られた逸話と、後に劉勲が誅されたとき太祖がその書を得て「杜畿は『竈に媚びぬ者』と言うべきだ」と称賛し諸郡に布告した経緯を伝える。魏国建国後は尚書となったが、太祖は改めて「昔の萧何・寇恂の功に等しいが、河東は股肱の郡ゆえ引き続き鎮めてほしい」と留任させた。畿は河東太守として十六年、常に天下第一と評された。
文帝朝と船難による死
- 文帝の即位で関内侯を賜り尚書に召され、践阼後は豊乐亭侯(邑百戸)に進封、守司隷校尉となった。呉征討中は尚書僕射として留守を統括し、後に許昌で再び留守を任された。詔により御楼船を造らせ陶河で試船した際、風にあおられ沈没して死去、享年六十二。『魏氏春秋』は、畿がかつて童子から「司命が召している」と告げられ懇願すると「今は身代わりを探している、慎んで言うな」と返された逸話を伝え、その二十年後にこの日死んだと記す。
- 詔は「冥は水官の職に勤め水死し、稷は百穀に勤め山で死んだ」(韋昭の注に見える上古の故事)になぞらえ、畿の忠を称えて太僕を追贈し戴侯と諡した。子の恕が嗣いだ。『傅子』は畿が太僕李恢・東安太守郭智と親交があり、両者の子を評して「李恢の子豊は才知に優れるが家を滅ぼしかねない、郭智の子沖は地味だが業を継ぐだろう」と述べ、後にその通り李丰は誅殺され一族も連座、郭沖は代郡太守として父業を継いだと伝える(当時人はこの予言を誤りと見ていた)。
杜恕――散騎黄門侍郎としての諫言
- 恕、字は務伯。太和年間、散騎黄門侍郎となった。『杜氏新書』は、恕が幼馴染の李丰と対照的な道を歩んだこと(丰は名声を求めて世に知られたが、恕は誠実で修飾を好まず名声を求めなかった)を伝える。明帝は大臣の子として恕を抜擢したが、恕は誠実で交遊を結ばず専ら公事に向き合い、政の得失を正言する姿勢を侍中辛毗らに重んじられた。
- 州郡の兵権に関する議論で恕は「刺史は本来六条を奉じ清静を旨とすべき、今後は領兵させず民事に専念させよ」と主張した。ちょうど鎮北将軍呂昭が冀州を兼領したのを受け、恕は上疏した。要旨は、国政の要は民を安んじ財を豊かにすることにあり、当時は二賊未滅で兵事が優先され過ぎて農桑の民まで武功を競い国用が窮乏していること、魏はすでに十州のうち多くの辺境州が領兵しており内地で国を支えるのは兗・豫・司・冀の四州のみであること、その要地である冀州にまで兵権を委ねれば国の腹心を損なうこと、官は人を得れば政は治まり訴訟は減るのに近年断獄が激増していること、を説き、忠言を用いる難しさと孤論の憂いを述べて上疏を結んだ。
杜恕――考課制についての上疏
- 朝廷が内外の官を評価する考課の制を大議した際、恕は「用いる者を得ずに法だけを立てても益はない」として上疏した。要旨は、書経の「明試以功、三考黜陟」を理想としつつ考課の詳細な法は歴代整わなかったことを踏まえ、州郡の考士は必ず四科の実績によるべきこと、公卿・内職の大臣も同様に職を考課されるべきこと、古の名臣も一人の力ではなく君臣が相扶けて成ったことを説き、大臣が守職の弁だけで治世を成せるわけではないと論じた。この考課の制は結局施行されなかった。
杜恕――廉昭弾劾への上疏
- 才能で抜擢された楽安の廉昭が密告を好んだことに対し、恕は極諫の上疏を行った。要旨は、尚書令陳矫が些細な失に自ら罰を請うた誠実さを例に挙げ、朝廷の臣が力を尽くさぬのは君主が用い方を誤っているためだと説き、王才・孟思ら不法者の摘発が小吏の手に委ねられ大臣が沈黙している現状を憂え、忠臣と親臣は必ずしも一致しないとして、疑いを招きやすい正直者が損をする風潮を正すよう求めた。周公が魯侯を戒めた「大臣を用いずに怨ませるな」、舜が四凶を退けた故事を引き、陛下自ら群臣と面談し能否を明らかにすべきと説き、司隷校尉孔羨が司馬懿(当時大将軍)の弟の不品行を黙認した例(狂悖の弟の名は司馬通、後に龍陽亭侯に封ぜられたが晋の受禅を認めず爵位を削られ武威に徙された)を挙げて選挙の不正を批判し、密告よりも道理を尽くす人材の登用を求めた。恕は朝廷にあること八年、常にこうした剛直な議論を行った。
杜恕――地方官としての晩年と最期
- 弘農太守に出て数年で趙相に転じた。『魏略』は後任の弘農太守孟康(字公休)が当初は外戚の縁で軽んじられたが、清廉な政治と省訟で人々の評価を改めさせた顛末を伝える。
- 恕は再び河東太守、淮北都督護軍となったがいずれも病で辞し、その治績は大局を保つのみで畿には及ばなかったという(『杜氏新書』)。御史中丞を経て幽州刺史・建威将軍・使持節・護烏丸校尉となったが、同じ蓟に屯する征北将軍程喜との確執を軽んじたため、着任後まもなく鮮卑の大人が塞を経ずに数十騎で州に至った事件で従者一人を無断で斬ったことを程喜に弾劾され、廷尉に下され死罪となった。父畿が公務で水死した功により減じられ庶人とされ章武郡に徙された(嘉平元年)。『杜氏新書』は程喜が恕に謝罪を促すよう仕向けたのに対し、恕が司馬宋権への返書で「善意で人に接すれば誤解も解けるが、悪意で接すれば必ず溝が生じる」と自らの信念を説き謝罪しなかった経緯を伝える。
- 章武への配流中、恕は陳留の阮武の勧めで『体論』八篇(君臣・言行・政法・用兵を人倫・立身・安民の要として論じたもの)と『興性論』一篇を著した。嘉平四年(252年)、配流先で没した。
樂詳と杜恕の顕彰
- 甘露二年(257年)、河東の楽詳(九十余歳)が杜畿の遺績を朝廷に上訴し、朝廷はこれに感じ入り、恕の子預を丰乐亭侯(邑百戸)に封じる詔を出した。『魏略』によれば楽詳、字は文載。若くして学を好み、建安初年に南陽の謝該に左氏伝の疑義を尋ね、その成果が『左氏楽氏問』七十二事としてまとめられた。帰郷後、杜畿が文学祭酒に任じて後進を教えさせ、河東の学業を大いに興した。黄初年間に博士に召され、太学で唯一五経すべてを教えて評判を得た。年老いて正始年間に致仕し、門徒数千人を残した。
- 恕の議論・上疏はいずれも見るべきものがあり、その中でも世に切実なものを選んで本伝に載せた。『杜氏新書』によれば恕の弟の理(字務仲)は聡明で畿に見込まれたが二十一歳で没し、弟の宽(字務叔)は清虚で学を好んだが名利を求めず孝廉に挙げられ郎中となり四十二歳で没した。恕の子預(字元凯)は司馬懿の女婿で、王隠『晋書』によれば智謀に優れ、公羊・穀梁の説を斥けて『春秋左氏経伝集解』を著し、盟会図・春秋長暦もあわせて一家の学を成し、晋室で征南大将軍・開府・当陽侯(食邑八千戸)に至った。
- 恕とともに廷尉に赴いた陳留の阮武(字文業)も卓越した人物で、清河太守を務めた。その一族には医術に精しい弟の炳や、後代に官職を継いだ子孫の事跡が伝わる。