出自と若き日
- 蘇則、字は文師。扶風武功の人。若くして学問と品行で聞こえ、孝廉・茂才に挙げられ公府に辟されたがいずれも就かず、酒泉太守として起家し、安定・武都太守を歴任した。『魏書』は則を剛直で悪を憎み、常に前漢の直臣汲黯を慕う人柄と伝える。
- 『魏略』によれば、則は代々の名族で、興平年間の三輔の乱で困窮し北地へ避難、安定の富豪師亮に身を寄せた。厚遇されず「天下が安定すればこの郡の太守に戻り、凡庸な者たちを圧倒してみせる」と慨嘆したという。のち冯翊の吉茂らと太白山に隠れ書籍を友とし、実際に安定太守となると、逃げようとした師亮らに礼を尽くして応じた。
金城太守としての治績
- 太祖の張魯征討に際し則の郡を通過、その器量を認めて軍導とした。魯の降伏後、則は下辯の氐族を安定させ、河西への道を通じて金城太守に転じた。当時は乱後で民は流散し戸口が減少していたが、則は謹んで撫循し、外は羌胡を招いて牛羊を得ては貧民・老人を養い、民と糧を分け合った結果、数千家が帰順した。禁令を明らかにし違反者は必ず処罰、従う者は必ず賞し、自ら民に耕作を教え、その年は大豊作となって帰属者が増えた。隴西で叛いた李越を羌胡とともに包囲し降伏させた。
- 太祖の死後、西平の麴演が護羌校尉を僭称して叛くと、則は兵を率いて討ち、演は恐れて降を乞うた。文帝はその功を賞し護羌校尉を加え関内侯を賜った。『魏名臣奏』所載の文帝の令問に対し雍州刺史張既は、金城郡がかつて韓遂に荒らされ戸数五百に満たなかったのが則の統治で千余戸に回復し、梁焼種羌ら三千余落も招き寄せ、麴演の乱も速やかに鎮圧したと詳しく述べている。
河西平定
- その後、麴演は再び近隣の郡を語らって乱を起こし、張掖の張進は太守杜通を捕らえ、酒泉の黄華は太守辛機を拒み、二人は自ら太守を称して呼応した。武威でも三種の胡が寇掠し道が断たれ、武威太守毌丘興が則に急を告げた。雍・涼の豪族らは羌胡を駆り立てて進らに従い、諸将郝昭・魏平は西進しない詔を受けていたが、則は「新たに合流した賊は必ずしも一枚岩ではない、隙をついて撃てば善悪が分かれ我に帰す者が増える、詔命に反しても専断すべき時だ」と説き、諸将はこれに従った。
- 則は武威を救い三種の胡を降し、毌丘興と共に張掖で進を攻めた。麴演は援軍を装いつつ実は変を謀ったため則は誘い出して斬り、その党は散走した。張掖を囲んで破り進とその党を斬ると衆は降った。演の軍が敗れると黄華も捕らえていた者を差し出して降伏し、河西は平定された。則は金城に戻り、都亭侯(邑三百戸)に進封された。
侍中としての気骨
- 徴されて侍中となり董昭と同僚になった。昭が則の膝を枕にして寝たとき、則は押しのけて「蘇則の膝は佞人の枕ではない」と言い放った。
- 則と臨菑侯曹植は魏が漢に代わったと聞いて共に喪服を着て悲哭したが、文帝は植のことは聞いたが則のことは聞かなかった。文帝が「禅譲を受けたのに哭する者があるのはなぜか」と何気なく問うたのを、則は自分への詰問と誤解し正論で応じようとしたが、侍中傅巽が「卿のことではない」と取りなして事なきを得た。則は金城にいた頃、漢帝が譲位したと聞いて崩御と誤解し喪を発したが、後に存命と知り自ら不明を恥じた。臨菑侯曹植も先帝への思いから哭泣しており、文帝が後にそれを悔いて漏らした言葉を、則はまたも自分への当てつけと誤解し馬を下りて謝罪しかけたが、傅巽の目配せで思いとどまった。孫盛は、則が新朝に仕えながら二心を抱いたまま激発しようとしたのは君子の去就の道ではないと論じている。
- 文帝が「敦煌の径寸の大珠をもっと求められないか」と問うと、則は「陛下の徳化が広まれば求めずとも至る、求めて得るのは貴ぶに足らない」と答え、帝は黙した。狩猟に従った際、鹿を逃した督吏らを帝が激怒して斬ろうとしたのを、則は「昔の聖王は禽獣のために人を害さなかった」と死を賭して諫め、帝は「卿は直臣だ」と赦したが、これにより帝から憚られるようになった。黄初四年(223年)、東平相に左遷され、赴任前に病没した。諡は剛侯。子の怡が嗣いだが子なく没し、弟の愉が襲封し咸熙中に尚書となった。愉の子紹は呉王太傅となり詩文で知られ、弟の慎は左衛将軍となった。