関中平定への貢献
- 張既、字は徳容。馮翊高陵の人。十六歳で郡小吏となる。『魏略』は既が単家の富裕な出で門地の低さを憂い、有力な吏に便宜を図って認められた経緯を伝える。茂才に挙げられ新豊令となり治績は三輔第一。
- 袁尚配下の郭援・高幹らが匈奴単于と結び平陽を攻めた際、鍾繇の依頼で既は馬騰らを説き、騰の子超が精兵を率い郭援を討ち斬った。高幹の再乱に際しても既は馬騰らを動員し破り、既は武始亭侯となった。
- 太祖の荊州征討時、馬騰らの兵権返上を説得し実現させ京兆尹となり流民を招いて県邑を復興、雍州刺史に転じた。太祖から「衣繍晝行」と称された。張魯征討や曹洪・夏侯淵の各戦にも従軍し臨洮・狄道を平定した。
涼州刺史としての功績
- 太祖の民の河北移住策に伴う隴西・天水・南安の民心動揺を、既は三郡の将吏を休課させ屋宅・水碓の整備で鎮めた。劉備の武都氐への接近を警戒し「氐を穀を求めて北出させよ」と献策し実現、氐五万余落を扶風・天水へ移した。『三輔決録注』は既の少年時代、功曹游殷が既の器量を見抜き子楚を託した逸話と、殷の死後の怪異譚(殷を陥れた胡軫の発狂死)を伝える。
- 涼州の反乱鎮圧では顔雋・和鸞・黄華・麴演らの相争いを利用する策(卞荘子の虎討ちの喩え)を献じ的中させた。文帝の涼州新設に伴い張進らの反乱にも既は蘇則を助勢し功を挙げ都郷侯に進封。伊健妓妾・治元多らの反乱では帝の期待を受け「兵少道険」の反対を押し切って渡河し武威を救い、疲弊した将士を励まし胡騎を大破した(成公英の伏兵策による)。『魏略』は成公英・閻行の詳細な経歴(韓遂への忠義、太祖への帰順)を長く伝える。
晩年と評価
- 酒泉の蘇衡の反乱も夏侯儒と共に討破し、左城の築城・烽候の設置を上疏した。西羌の麴光の反乱には「羌胡を用いて内外から分断せよ」と献策し無戦で鎮定した。既が二州で十余年にわたり礼辟した龐延・楊阜・胡遵・龐淯・張恭・周生烈らはいずれも名を成した。『魏略』は既を若年時に鞭打った功曹徐英が、既の出世後も和解を拒み続けた気骨を伝える。黄初四年(223年)薨じ、詔で張既を馮異・荀桓子に比す顕彰があり、子翁歸に関内侯が賜られた。明帝即位で肅侯と追諡、子緝が嗣いだ。
子緝
- 緝は中書郎から東莞太守に遷り、女が皇后となると光禄大夫・特進に進み妻は安城郷君に封ぜられたが、中書令李豊との謀議に連座し誅された。『魏略』は緝の治能、相人に二千石までと予言された逸話、諸葛恪の死を的中させた予測(「威震其主、功蓋一国にして死を免れられようか」)と大将軍(司馬師)の評価を伝える。孫の殷は晋の梁州刺史となった。