出自と若き日の見識
- 司馬朗、字は伯達。河内温の人。司馬彪の序伝によれば祖父雋は博学倜儻の人、父防は謹厳な人柄で『漢書名臣列伝』を数十万言諳んじた。朗は九歳で父の字を口にした客を「親を軽んじる者」と諫め、十二歳で童子郎の試験を受けた際、身体が壮大で年齢を偽ったと疑われたが「早熟を求めたわけではない」と弁じ監試者を感心させた。
- 関東で兵が起こると、故冀州刺史李邵の温への移住を「脣歯の喩え、寇未至にして先に徙れば動揺を招く」と諫めたが従われず、果たして辺山の民は乱れた。
董卓政権下の献策と兗州刺史
- 董卓が天子を長安に遷した際、治書御史の父防に代わり朗は家族を本県へ帰した。逃亡を疑われ卓に引見された際、朗は卓の功徳を称えつつ民の困窮を訴え、卓の警戒を解いた。裴松之は朗のこの弁が実質的な諫言になっていない点を指摘する。
- 卓の滅亡を見越し財を散じて帰郷を求め、父老に「境壌が交戦の地となる」と黎陽への集団移住を説いたが従う者は少なく、同県の趙咨のみが同行した。関東諸軍の混乱、太祖と呂布の対峙を経て温に戻り、飢饉の中で宗族を収恤した。
- 二十二歳で太祖の司空掾属となり成皋令・堂陽長を歴任、寛恵の政で民に慕われた。井田制の復活や州郡の領兵を主張したが、後者のみ実現した。兗州刺史となり政化大行、質素倹約を旨とし、鍾繇・王粲の「聖人ならでは太平は致せぬ」との論に「伊尹・顔回の徒でも数世相承すれば太平は致せる」と反論した。孫盛はこの議論について、聖人と大賢に本質的な優劣差はないとする観点から評している。
最期と一族
- 建安二十二年(217年)、夏侯惇・臧霸らと呉討伐に従い居巣で軍中の疫病に自ら巡視し医薬を施したが、罹患し四十七歳で没した。布衣幅巾で時服のまま葬るよう遺命した。明帝即位で子の遺が昌武亭侯に封ぜられ、弟の孚の子望が朗の後を継いだ(遺の後は望の子洪が嗣ぐ)。『晋諸公賛』は望が咸熙中に司徒、晋で義陽王・太尉・大司馬となり、父孚(太宰)と共に上公位にあったことを伝える。
- 朗と共に難を避けた趙咨も太常に至り世に名高い士とされた。