出自と幼少期の逸話
- 劉曄、字は子揚。淮南成悳の人。後漢光武帝の子阜陵王延の後裔。母の遺言(父の侍者の讒害の性を除くべき)に従い、十三歳で兄渙と共に侍者を誅殺し墓前に報告、父普もその意を汲み罰しなかった。許劭は曄を「佐世の才」と評した。
鄭寶誅殺と劉勲への献策
- 揚州の豪傑鄭寶が民を脅して江表への移住を強要し曄を担ごうとした際、曄は太祖の使者を利用して寶を宴席で謀殺し、その衆を服属させたが、支族として兵権を望まず廬江太守劉勲に部曲を委ねた。
- 孫策が甘言で劉勲に上繚討伐を勧めた際、曄は独り「上繚は堅固で攻めるのに手間取り、その隙に策が背後を襲う」と諫めたが勲は従わず果たして策に襲われ、勲は太祖に奔った。
陳策討伐から張魯征討
- 太祖の廬江山賊陳策討伐を巡る議論で、曄は「今や天下は略定し、畏死趨賞は人の常、明公の威徳をもって兵を臨ませれば潰える」と説き的中、太祖は司空倉曹掾に辟した。『傅子』は蔣済・胡質ら五名士の中で曄だけが沈黙を守り、太祖の心を摑む戦略を取った逸話を伝える。
- 張魯征討では太祖が食糧難で撤退しようとしたのを「魯は既に敗色濃厚」と説いて進撃を主張し漢中を平定させた。さらに「今の勢いで蜀を攻めれば伝檄で定まる、劉備は蜀を得たばかりで人心も定まっていない、緩めれば諸葛亮・関羽・張飛が備えを固める」と進言したが太祖は用いず、七日後に蜀の混乱を聞いて再度問うたが曄は「既に小定した」と答え、太祖は撤退した。
孟達評と文帝期の対呉策
- 孟達の帰順に際し曄は「利を得れば恩義を感じぬ人物、新城は呉蜀と接する要地であり変事の種となる」と警告し、後に孟達は果たして叛いた。『傅子』は曄が魏諷・孟達を一見して反心を見抜いた逸話を伝える。
- 黄初元年、侍中・関内侯。劉備の関羽への報復出兵を巡る議論で「関羽は君臣父子の情、備は威武を示すため必ず出兵する」と唯一予測し的中。孫権の降伏に対しては「呉は元来内臣の意なく、蜀に迫られてやむなく降を求めたに過ぎない、この機に乗じて呉を襲うべき」と説いたが用いられず、呉王への冊封にも「王位は天子に一階に過ぎず、軽々しく与えれば虎に翼を与えるようなもの」と強く反対したが用いられなかった。『傅子』はこれらの議論の詳細を伝える。
明帝期の議論と晩年
- 明帝即位で東亭侯、高皇帝の追尊号を巡る議論では「親疏の礼に従い高皇帝までにとどめるべき」と論じ、王朗の意見と一致してこれが施行された。公孫淵の反逆を予見し「新たな自立の隙に乗じ討つべき」と説き、後に淵は果たして反した。
- 曄は魏室で時人と交わらず「腹心の任にある身」と自ら述べたが、蜀討伐を巡り帝の前と朝臣の前で異なる意見を述べる二枚舌が露見し帝の信を失い、発狂して大鴻臚のまま憂死した。裴松之は「巧詐不如拙誠」の諺を引きこれを論評する。子寓が嗣いだ。
子陶
- 少子の陶は才知に優れるが素行に難があり平原太守となった。『傅子』は陶が曹爽時代に鄧颺らに伊尹・呂尚になぞらえられ驕慢であったこと、王弼への放言、爽の敗北後の悔悟を伝える。干宝『晋紀』は毌丘倹の挙兵時の陶の曖昧な対応が大将軍の怒りを買い、平原太守に出された後に殺された経緯を伝える。