三國志卷十三 鍾繇華歆王朗傳第十三 鍾繇

鍾繇(字は元常、潁川長社の人、?–太和四年)は曹操配下で関中の平定・戸口回復に功を挙げ、魏建国後は廷尉・太尉・太傅を歴任した重臣。書家としても名高く、肉刑復活を上疏するなど法制にも関心を寄せた。子の鍾毓も要職を歴任し名臣として知られた。

年表(4件)
  • 太和年間肉刑復活を上疏し、右趾切断刑への復帰を説いた
  • 太和四年薨じた。帝は素服して弔い、成侯と諡した
  • 太和初(附伝)子の鍾毓が諸葛亮の祁山侵攻に対する明帝の西征を諫めた
  • 景元四年(附伝)子の鍾毓が薨じ、車騎将軍を追贈され恵侯と諡された

出自と初期の仕官

  • 鍾繇、字は元常。潁川郡長社の人。祖父は鍾迪、曾祖父は鍾皓(字季明、司徒掾を務めた郷里の名士)。かつて族父の鍾瑜と共に洛陽へ赴いた際、人相見に「貴相だが水難の相がある、努めて慎め」と言われ、その後橋を渡る際に馬が驚いて落水し溺れかけた。瑜はこの予言が的中したことから繇を重んじ、学資を援助して専心学問させた。
  • 孝廉に挙げられ、尚書郎・陽陵令を歴任、病により辞官。三府に辟され廷尉正・黄門侍郎となる。当時献帝は長安にあり、李傕・郭汜の乱で関東と断絶していた。太祖(曹操)が兖州牧として初めて上書の使者を送った際、傕・汜らはこれを疑い太祖の使者を留めようとしたが、繇が「今英雄が並び起こる中、曹兖州のみが王室に心を寄せている、その忠款を拒むべきではない」と説き、傕・汜はこれに従い太祖の使命が通じるようになった。太祖は荀彧が繇を推薦していたことに加え、この一件で繇への信頼を深めた。後に李傕が天子を脅した際、繇は尚書郎韓斌と共に策を練り、天子が長安を脱出する助けとなった。御史中丞を拝命し、侍中尚書僕射に遷り、前功を録して東武亭侯に封ぜられた。

関中における功績

  • 関中の諸将馬騰・韓遂らが互いに争う中、太祖は山東への対処に追われ関右を憂慮していた。繇を侍中守司隷校尉として持節督関中諸軍とし、後事を委ねて特に制度に拘束されない権限を与えた。繇は長安に至り騰・遂へ書を送って利害を説き、両者はそれぞれ子を人質として送った。
  • 太祖が官渡で袁紹と対峙した際、繇は軍馬二千余匹を送り、太祖は書を送って「関右の平定は足下の勲だ、かつて蕭何が関中を鎮守し食を足して軍を成したのに等しい」と称えた。
  • その後匈奴単于が平陽で反乱を起こし、繇が諸軍を率いて包囲するも陥落させられずにいたところ、袁尚の配下の河東太守郭援が河東に到達し勢力を増した。諸将は撤退を主張したが、繇は「今退けば弱さを示すことになり、味方も敵に転じる。援は剛愎で驕っており、汾水を渡って営を構えれば渡河の半ばを衝いて大破できる」と説いた。張既が馬騰を説得して援軍を出させ、騰は子の馬超に精兵を率いて迎撃させた。援は果たして軽々しく渡河し、渡り終わらぬところを撃たれて大破された。郭援は斬られ、単于は降った。
  • その後河東の衛固が張晟・張琰・高幹らと共に反乱を起こしたが、繇は諸将を率いてこれを討破した。天子の西遷以来荒廃していた洛陽の人口を回復するため、繇は関中の民を移住させ、亡命者を招いて充実させた。数年で戸口が実り、太祖の関中征討はこれを資とした。繇は前軍師を表された。

魏国建国後

  • 魏国が建てられると大理となり、相国に遷った。文帝がまだ東宮にあった頃、繇に五熟釜を賜り銘を作った。
  • 数年後、西曹掾魏諷の謀反に連座し、策により罷免され邸に留め置かれた。文帝が王位に即くと再び大理となり、践阼に及んで廷尉と改め崇高郷侯に進封、太尉に遷り平陽郷侯に転封された。当時司徒華歆・司空王朗は共に先朝以来の名臣であり、文帝は朝を罷めるたびに左右に「この三公はまさに一代の偉人、後世まず並ぶ者はいまい」と語った。
  • 明帝が即位すると定陵侯に進封され、邑五百戸を増して前と合わせ千八百戸となり、太傅に遷った。繇は膝の疾患があり拝礼の起居が不便であったため、華歆もまた高齢で疾病があったことから、朝見の際には車に乗せ虎賁が輿に担いで昇殿させるようになり、以後三公に疾患がある場合の先例となった。

肉刑復活論

  • 太祖が死刑を宮刑に代える是非を議した際、繇は「古の肉刑を復活させ死刑に代えるべき」と主張したが、議者は民心に沿わないとして沙汰止みとなった。文帝が群臣に議させた際も軍事があり再び沙汰止みとなった。
  • 太和年間、繇は上疏し「大魏は虞夏の跡を継ぐ、先帝も肉刑復活の詔を発したが軍事で果たせなかった。当今の死罪のうち右趾を斬るべきところを大辟としているものを、右趾切断に戻すべきだ。今の人口は文帝の代より少なく、肉刑を復活させれば年に三千人の命を救える一方、張蒼が肉刑を廃してから死者は年に万を数える」と説いた。
  • 詔で公卿の議論を求めたところ、司徒王朗は「繇の意図は理解できるが、既に減死一等の法があり、肉刑を用いずとも罪次はつけられる。今さら復活させれば恩恵が民に伝わる前に諸国に肉刑復活の噂だけが広まり、遠人を招く妨げになる。繇の言う軽くすべき死罪は髠刑・刖刑への減刑にとどめ、居作の年数を倍加すればよい」と反論し、賛同する議者が多かった。帝は呉蜀が未平定であることから沙汰を止めた。

薨去

  • 太和四年、繇は薨じた。帝は素服して弔い、成侯と諡した。子の毓が嗣ぎ、文帝は毓の戸邑を分けて繇の弟演および子の劭、孫の豫を列侯に封じた。

鍾毓――経歴

  • 鍾毓、字は稚叔。十四歳で散騎侍郎となり、機知に富み父の風があった。太和初、蜀相諸葛亮が祁山を囲み明帝が西征しようとした際、毓は「策は廟算を貴び、功は帷幄を尚ぶ。車駕は中土を鎮守し四方への威勢の後ろ盾とすべき、盛暑の行軍は詩人も重んじるところではない」と諫めた。
  • 黄門侍郎に遷る。洛陽の宮室が大興され車駕が許昌に幸した際、天下が許昌に朝正することとなり、城が手狭で氈の殿を築き魚龍曼延の見世物まで設け民が疲弊したため、毓は「水旱不時で帑蔵空虚、豊年を待つべき」と諫め、また関内の荒地開墾を奏上、これは施行された。
  • 正始中、散騎常侍。大将軍曹爽が盛夏に蜀を伐とうとした際、毓は書を送り「廟勝の策は矢石に臨まず、王者の兵は征して戦わず。可なるを見て進み難きを知って退くのが古来の政」と諫めたが、爽は功なくして帰った。後に爽の意に逆らったことで侍中に転じ、外任として魏郡太守となる。爽誅殺後は御史中丞・侍中廷尉に入った。君父が没した後に臣子が誹謗を弁ずることを許す制度、また士が侯となった場合その妻が再嫁しない制度は毓の創始である。
  • 正元中、毌丘倹・文欽の反乱に際し毓は持節して揚・豫州に赦令を布告し、尚書に還った。諸葛誕の反乱では大将軍司馬文王(司馬昭)が自ら寿春討伐に赴こうとした際、呉の大将孫壱が投降してきたことから「呉は新たに内紛があり出兵できまい、様子見すべき」との意見が出たが、毓は「今誕は淮南の地を挙げて呉に与し、孫壱の率いる兵は千に満たない。呉の損失はわずかで、寿春の囲みが解けなければ呉国内はかえって安定し出兵しないとは限らない」と反論し、大将軍はこれを採用して毓を従軍させた。
  • 淮南平定後、青州刺史となり後将軍を加えられ、都督徐州諸軍事に遷り仮節、さらに都督荊州に転じた。景元四年薨じ、車騎将軍を追贈され恵侯と諡された。子の駿が嗣いだ。毓の弟の会には別に伝がある。