三國志卷十二 崔毛徐何邢鮑司馬傳第十二 司馬芝

孝行と法の厳格な運用

  • 司馬芝、字は子華。河内温の人。荊州避難中、賊に襲われた際も老母を守り通し「孝子なり」として難を免れた逸話がある。太祖の荊州平定後、菅の長として豪侠の主簿劉節の不正を厳しく糺した。
  • 広平令として征虜将軍劉勛の口利きにも屈せず法を守った(後に劉勛は不軌の罪で誅された)。大理正として、証拠の乏しい盗品事件で拷問による誣服を戒め、疑わしきは罰せずの方針を太祖に容れさせた。

河南尹・大司農としての施政

  • 黄初年間、河南尹として内官の口利きを退け(曹洪の乳母の獄で卞太后の使者すら通さなかった)、下吏を戒める教書で綱紀を粛正した。門下循行の疑獄では証拠不十分として不問に付す寛容さも示した。
  • 明帝の代、大司農として屯田の民が私的な商売に走る弊害を指摘し、農桑本業への専念を上申して容れられた。清廉で官にて没し、以後の河南尹で及ぶ者はなかったと評される。子の司馬岐は廷尉として梁国の獄事件を速やかに裁いた逸話が伝わる(三十五歳で没)。

史論

  • 評に曰く、徐奕・何夔・邢顒は峻厳な志操で世の名士となった。毛玠は清廉、司馬芝は忠実で剛柔を兼ねた。崔琰は最も高い風格を持ち、鮑勛は正義を貫いたが、いずれもその身を全うできなかった。明晰にして哲であること、直にして温であることを兼ね備えるのは容易ではないと評される。