若き日と袁紹への仕官
- 崔琰、字は季珪。清河東武城の人。若い頃は武を好んだが二十三歳で発奮して学に転じ、鄭玄に師事した。黄巾の乱で師が離散した後、青・徐・兗・豫を巡り四年ぶりに帰郷した。
- 袁紹に召され、士卒の暴虐(墓の掘り起こし)を諫め、天子奉迎に消極的な紹の官渡進軍を諫めたが用いられず紹は敗れた。紹の死後、二子(譚・尚)の後継争いで両派に望まれたが病と称して固辞し、投獄されるも陰夔・陳琳の助けで免れた。
太祖のもとでの直言
- 太祖の冀州平定後、別駕従事となる。太祖が戸籍三十万を誇った際、崔琰は「民の困窮を思わず兵数のみを問うのか」と諫め、太祖は容を改めて謝した。
- 太祖の并州出征中、世子(文帝)の狩猟の逸脱を書簡で諫め(魯の隠公の観魚の故事などを引く)、世子は詫びる返書を送った。丞相の東西曹掾属となり、太祖からは「伯夷の風、史魚の直あり」と評された。
太子選定への関与と死
- 魏国建国後、尚書。太子未定の折、臨菑侯曹植の岳父にあたる立場でありながら「長子を立てるべき」と公然と主張し、太祖はその公明さに感嘆した。中尉に遷る。
- 眉目秀麗で威厳があり、太祖にも敬憚された。推挙した楊訓の上表が浮薄と嘲笑された際、崔琰の弁明の書簡「時乎時乎、会当有変時」が誹謗と誤解され、太祖の怒りを買った。徒隷に落とされても意気を屈せず、それがかえって太祖の疑いを深め、最終的に自殺を強いられた(『魏略』はこの経緯を詳述する)。世に惜しまれ、司馬朗・崔林・孫礼・盧毓らの人物鑑識の逸話も伝わる。
附 孔融――幼時の才と北海での治績
- 孔融、字は文舉。孔子の二十世孫。十歳で李膺の門を訪ね機知を示した逸話、張倹を匿い兄と死を争った逸話(詔により兄褒が罪を負った)で早くから名声を得た。北海相として黄巾後の荒廃した郡を復興し、学校を興し鄭玄のために「鄭公郷」を設けるなど賢才を礼遇したが、実務面では奇矯な人材登用や統治の破綻も目立ち、袁譚に攻められて妻子を捕らわれる敗北を喫した(『九州春秋』は融の統治能力の欠陥を厳しく評している)。
附 孔融――太祖との軋轢と最期
- 献帝を許に迎えた後、太祖の酒禁令を風刺する書簡を送るなど太祖を侮ることが多く、内心の不興を買った。楊彪が誅殺されかけた際には諫めて救った。袁紹敗北後の書簡で妲己の故事を持ち出した皮肉、孫権の使者への讒謗的発言などが重なり、建安十三年、棄市に処された。二人の幼い子も連座して殺された(父の危難に動じなかった逸話が伝わるが、裴松之は孫盛の記述に疑義を呈している)。太祖は世人の同情を恐れ、融を「風俗を乱した」として断罪する令を発した。同時期に誅された許攸・婁圭の逸話も付す。