三國志卷十一 袁張涼國田王邴管傳第十一 管寧
管寧(字は幼安、北海朱虚の人、?–正始二年、享年八十四)は乱世を避け遼東に隠棲し、経典を講じ徳化をもって人々を導いた高潔の隠士。黄初四年に三十七年ぶりに帰郷した後も度重なる出仕の招きをことごとく固辞し、清節を貫いて生涯を終えた。
遼東での学徳
- 管寧、字は幼安。北海朱虚の人。管仲の後裔と伝わる。華歆・邴原と親交し、公孫度のもとで山谷に廬を結び、経典を講じ礼儀を明らかにして人々を教化した。井戸を巡る争いを密かに器具を配って解消し、牛が田を荒らした際に牛を涼所へ移し飼料まで与えるなど、徳をもって人を導く逸話が数多く伝わる。
帰国と再三の徴召
- 中原がやや安定すると避難者は次々帰還したが、寧は泰然として留まり続けた。黄初四年、文帝の徴召を受けて三十七年ぶりに帰郷、公孫恭の贈与も一切受け取らず西渡の際にすべて返した(公孫氏の嫡庶を巡る混乱を見抜き危険を避けたためとも伝わる)。太中大夫を固辞、明帝の代にも光禄勲を拝命したが病を理由に固辞し続けた。青龍年間、刺史程喜の報告によれば、寧は質素な生活を守り自ら杖をついて動き、四時の祭祀を欠かさなかったという。
- 正始二年、太僕陶丘一らが寧を強く推薦する上表を奉ったが、招聘の完了直前に八十四歳で没した。生涯一つの牀に座り続け、五十余年で膝の当たる部分が擦り切れたと伝わる。妻の死後も再婚を勧められて固辞し、氏姓の乱れを正す『氏姓論』を著した。
附 王烈
- 王烈、字は彦方。邴原・管寧より名声が高かったが、公孫度の招きを固辞し商賈に身をやつして避けた。潁川の陳寔に師事し荀爽・賈彪・李膺・韓融らと親交した。盗牛者を許し布を贈って改心させた逸話、老父の荷物を代わりに担い剣を守った者を表彰した逸話などが伝わり、遼東で徳化を及ぼしたが、太祖の召しに応じぬまま建安二十三年、七十八歳で没した。
附 張臶・胡昭
- 巨鹿の張臶(字子明)は仕官を拒み常山・任県に隠棲し、太和年間、朝廷から瑞祥の解釈を求められた際も「漢の廃亡・魏の受命はすでに定まっており、この石は今後の変事の徴だ」と答えた。正始元年、鵀鳥の巣が門の陰にあるのを凶祥として詩を詠み、旬日で没した(享年百五歳)。
- 頴川の胡昭(字孔明)は太祖の招聘に応じたが「軍国の用に足りない」として辞去を願い出、陸渾山中で耕作しつつ経籍を楽しんだ。司馬懿(当時は布衣)の危難を救った陰徳の逸話も伝わる(口外しなかったという)。馬超の乱や関羽軍の侵入の際も徳望で郷里を守った。正始年間に再三推薦されたが、韋誕の慎重論もあり招致は見送られ、嘉平二年に八十九歳で没した。
附 焦先・扈累・寒貧ら隠者
- 河東の焦先は白波の乱以来独居し、粗末な廬(瓜牛廬)に住み衣食を極端に切り詰め、人と関わりを絶ちながら質朴な行いを貫いた。呉討伐の可否を問われ意味深長な謡で答えた逸話が伝わり、皇甫謐は「三皇以来の一人」と評した。同様に京兆の扈累、安定出身の寒貧(本姓石、字德林)も清貧に徹し名利を求めぬ生き方で知られた。
史論
- 評に曰く、袁渙・邴原・張範は清く道を歩み、貢禹・二龔にも比すべき人物である。涼茂・國淵はこれに次ぐ。張承は範に亜ぐ名声を持つ弟であった。田疇は節を貫き、王脩は忠貞を尽くして俗を正し、管寧は淵雅高潔で節操を曲げなかった。張臶・胡昭は門を閉ざして静を守り世事に関わらなかった。ゆえにこれらを併せ記す。