三國志卷九 諸夏侯曹傳第九 夏侯尚

夏侯尚(字は伯仁、夏侯淵の従子)は文帝の親友として重用された武将。荊州方面で上庸・江陵を攻略し征南大将軍に至ったが、寵妾を巡る文帝の処置に悲嘆し病を得て没した。子の夏侯玄は名士として知られたが、正始末の政争(李豊の変)に連座して誅殺された。

年表(5件)
  • 黄初三年曹真と共に江陵を包囲し呉将諸葛瑾軍を撃破、仮鉞・州牧に進む
  • 黄初五年昌陵郷侯に徙封された
  • 黄初六年病篤く薨去し、悼侯と諡された
  • 正始初め曹爽の輔政のもとで散騎常侍・中護軍に累遷した
  • 嘉平六年二月李豊の陰謀が発覚し夏侯玄・張緝らが誅殺され三族が夷せられた

夏侯尚

  • 夏侯尚、字は伯仁。淵の従子で文帝と親友であった。太祖の冀州平定に軍司馬として従い、代郡の胡族討伐にも参陣。太祖崩御の際は節を持して梓宮を鄴へ護送し、平陵亭侯・散騎常侍・中領軍を歴任。文帝践阼後は征南将軍・領荊州刺史・仮節都督南方諸軍事となり、上庸の劉備別軍を奇襲で破り三郡九県を平定して征南大将軍に進んだ。
  • 黄初三年、曹真と共に江陵を包囲し、呉将諸葛瑾の軍を夜襲・水陸両面で撃破。疫病により撤退となったが益封六百戸(合計千九百戸)・仮鉞・州牧に進んだ。荊州の残荒の地に道を通し数千家を服従させ、五年には昌陵郷侯に徙封された。
  • 尚は嫡室(曹氏の娘)をさしおいて愛妾を寵愛したため文帝がその妾を絞殺させた。尚は悲しみのあまり病を発し、埋葬後も妾を思って掘り返すほどであったが、旧臣として文帝の恩寵は衰えなかった。黄初六年、病篤く帰京し帝がしばしば見舞い、薨去に際し悼侯と諡され「入っては腹心、出れば爪牙であった」と称える詔が下された。子の玄が嗣いだ。

夏侯玄――人物と献策

  • 夏侯玄、字は太初。若くして名高く、皇后の弟毛曾と同席させられたことを恥じて明帝の不興を買い羽林監に左遷された。正始初め曹爽(玄の姑の子)の輔政で散騎常侍・中護軍に累遷し、武官の登用に俊傑を選び後世の規範とされた。
  • 太傅司馬懿の問いに答え、官吏登用は中正の考課と上位の詮衡を分けて相互に制約させるべきだと論じ、また郡制を廃して州刺史に一元化することで冗官・煩費を省くべきと説き、さらに文質の均衡を保つ礼制・服制改革を提言した。司馬懿は概ね賛同しつつも旧習の転換には慎重な回答を返し、玄はなお改革の即行を重ねて説いた。

夏侯玄――李豊の変と誅殺

  • のち征西将軍・仮節都督雍涼州諸軍事となったが、曹爽と共に駱谷の役を興したことで時人に譏られ、爽誅殺後は大鴻臚・太常に左遷され不遇をかこった。中書令李豊は皇后の父張緝と結び、玄を輔政に立てようと画策、嘉平六年二月、貴人拝命の儀に乗じて大将軍司馬師を誅し玄に代え張緝を驃騎将軍にする計画を立てたが、大将軍に察知され李豊は誅殺、玄・緝・蘇鑠・楽敦・劉賢らも捕らえられ夷三族となった。
  • 玄は刑死に際しても顔色を変えず従容としていたという。享年四十六。正元中、尚の従孫曹本が昌陵亭侯(邑三百戸)に封ぜられ尚の祭祀を継いだ。

許允

  • 中領軍許允は李豊・夏侯玄と親しかった。何者かが偽の詔書を持ち込み、玄を大将軍、允を太尉として共に録尚書事とすると告げたが、允は開封せず焼き捨てて司馬師に報告した。しかし後に李豊の一件が発覚すると允も連座し、鎮北将軍に左遷される途上、官物の不正使用の罪で収監され楽浪へ徙される道中で死去した。妻阮氏の賢明さで難を逃れたとの逸話や、子の許奇・許猛の名も伝わる。

王経

  • 清河の王経は許允と並び冀州の名士と称された。甘露年間、尚書として高貴郷公事件に連座し誅殺された。母は経に「田家の子が二千石の官に至ったのは過分、そろそろ止めるべきだ」と諭したが従わず、二州刺史・司隷校尉を歴任した末に破滅を招いた。刑に臨んでも母は顔色を変えず「人は誰しも死ぬもの、その死に場所を得られなかったことこそ恨みだ」と応じたという。晋の武帝は経の守節を嘉し孫に郎中の位を賜った。

史論

  • 評に曰く、夏侯・曹両氏は代々婚姻を結び、惇・淵・仁・洪・休・尚・真らはみな親族としてその功業を助け、それぞれ功労があった。しかし曹爽は徳薄く地位ばかり高く驕奢に溺れ、これは『易』の戒めや道家の忌むところそのものである。夏侯玄はその器量で名を得たが、曹爽と親密でありながらその非を諫め良才を推挙したとは聞かない。これをもって論じれば、両者ともその咎を免れ得なかったといえよう。