三國志卷九 諸夏侯曹傳第九 曹真
曹真(字は子丹、曹操の族子)は孤児となったところを曹操に養われた宗室武将。蜀の諸葛亮の北伐を退け大司馬・剣履上殿の礼を受けるまでに至った。子の曹爽は明帝没後に大将軍として輔政したが専権を極め、正始十年の高平陵の変で司馬懿に一族もろとも誅殺された。
軍歴
- 曹真、字は子丹。太祖の族子。父の曹邵は太祖挙兵に協力して州郡に殺され、太祖は孤児となった真を憐れんで我が子同様に育てた。虎に立ち向かい仕留めた武勇から虎豹騎を任され、霊丘の賊を討ち霊寿亭侯に封ぜられた。下辯で劉備の別将を破り中堅将軍となり、夏侯淵の陽平での戦死後は征蜀護軍として劉備の別将高詳を破った。太祖の漢中撤退では洪らの護送も担った。
- 文帝即位後は鎮西将軍・仮節都督雍涼州諸軍事となり東郷侯に進み、酒泉での張進の反乱を平定させた。黄初三年には上軍大将軍・都督中外諸軍事・仮節鉞となり夏侯尚らと共に孫権を征討、牛渚屯を破った。中軍大将軍・加給事中を経て、文帝の遺詔輔政の一人に列した。明帝即位後は邵陵侯に進み大将軍に至った。
諸葛亮との対戦
- 諸葛亮が祁山を囲み南安・天水・安定三郡が呼応した際、真は諸軍を郿に率い、張郃に馬謖を大破させて三郡を平定した。真は亮が再び陳倉から出ると見て郝昭・王生に陳倉を守らせ、翌年の亮の陳倉包囲を退けた。功で二千九百戸に加増され大司馬・剣履上殿・入朝不趨の礼を賜った。
- 蜀の連年の侵攻に対し数道から一斉に蜀を伐つべきと献策し、八月に長安を発し子午道から南進、司馬懿は漢水を遡り、他の諸軍も斜谷道・武威から進んだが、三十日を超える大雨で桟道が断絶し撤軍の詔が下った。
一族
- 真は若くして曹遵・朱讃と共に太祖に仕え、二人の早世を悼み自らの食邑を割いてその子に封じるよう願い出た。将士と労苦を共にし、賞が不足すれば私財を分け与えたため士卒はみな喜んで用いられた。病篤く洛陽に戻ると明帝が自ら見舞い、薨去後は元侯と諡された。子の爽が嗣ぎ、真の他の五子(羲・訓・則・彦・皚)も列侯に封ぜられた。真の弟彬も列侯となった。
曹爽――輔政の開始
- 曹爽、字は昭伯。宗室の重鎮として明帝に親愛され、散騎侍郎・城門校尉・散騎常侍・武衛将軍を歴任。明帝重篤の際、大将軍・仮節鉞・都督中外諸軍事・録尚書事に任じられ、太尉司馬懿とともに遺詔で幼主の輔政を託された。斉王即位後は侍中を加え武安侯(邑一万二千戸)に改封、剣履上殿・賛拝不名の礼を賜った。
- 丁謐の策により、爽は詔を発して司馬懿を太傅に転じさせた。名目上は尊崇だが、実際は尚書の奏事をまず自分の手元に集める狙いがあった。爽は弟の羲に上表させ、司馬懿の高い徳・武功・遺詔を受けた重みを列挙して太傅・大司馬に推挙し、帝は司馬懿を太傅に任じる詔を下した(呉漢の故事等を引く長文の詔書であった)。
曹爽――専権と驕奢
- 爽の弟羲は中領軍、訓は武衛将軍、彦は散騎常侍侍講となり他の弟も列侯として禁中に出入りし、その権勢は並ぶ者がなかった。何晏・鄧颺・李勝・丁謐・畢軌ら、かつて明帝に浮華として退けられていた人物を腹心として登用した。鄧颺らが功名を焦り蜀討伐を勧めたため、正始五年に爽は自ら六七万の兵を発し駱谷から進んだが、輸送が続かず牛馬騾驢が多く死に民衆が号泣する惨状となり、賊の堅い守りに阻まれて進軍できなかった。参軍楊偉の撤退進言に鄧颺・李勝が反発したが、司馬懿が夏侯玄に高祖の漢中出征の故事を引いて警告したこともあり、爽は軍を退いた。費禕の伏兵にも苦戦し、輜重の運搬に用いた牛馬もほぼ失われ、羌・胡の怨嗟を招いて関右は疲弊した。
- 当初、爽は司馬懿を父のように敬い専断を控えていたが、何晏らの進言で権勢を独占するようになり、晏・鄧颺・丁謐を尚書に、畢軌を司隷校尉、李勝を河南尹に据え、司馬懿は病と称して身を引いた。晏らは洛陽・野王の桑田数百頃を分割し湯沐地を壊して私財とし、官物を窃取し州郡へ求めるなど専横を極め、廷尉盧毓を法で陥れるほどであった。爽の飲食車服は天子に擬え、先帝の才人・良家の子女を私的に伎楽として集め、詔書を偽って才人を鄴台に送り、太楽の楽器や武庫の禁兵まで擅用した。羲は深く憂え諫めたが聞き入れられず、司馬懿は密かに備えを進めた。李勝が荊州刺史として辞去の挨拶に訪れた際、司馬懿は重病を装って欺いた。
曹爽――高平陵の変
- 正始十年正月、斉王が高平陵に参詣し爽兄弟が皆従った際、司馬懿は武庫を先に確保し洛水の浮橋に出屯した。爽の背信・専権・張当を介した禁中への干渉などを糾弾する奏を天子に上げ、太后の令により爽・羲・訓の吏兵を解いて侯として第に帰らせるとした。
- 爽は奏を握りつぶされ動揺した。桓範は城門を強行突破して爽のもとへ駆けつけ、天子を奉じて許昌へ赴き外兵を招集するよう説いたが、爽兄弟は決断できず、最終的に爽は刀を投げ捨て「司馬懿はわが兄弟に己に従うことを望んでいるだけだろう」と述べ、許允・陳泰を遣わして帰罪を願い出た。司馬懿は洛水に誓って命は助けると伝え、爽はこれを信じて兵を解いた。爽は「これで富家の翁として生きられる」と言い、桓範は「曹子丹(曹真)ほどの人物がお前たち兄弟のような犢を生んだとは、今日の一族滅亡を思えば嘆かわしい」と泣いたと伝わる。
曹爽一派の誅殺(鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範)
- 張当が選んだ才人を密かに爽に与えていた件から取り調べが進み、爽・何晏らが謀反を企て三月に決行を予定していたと張当が自白、朝議は「爽は先帝の遺詔を託されながら禍心を包蔵し神器を図った大逆」として爽・羲・訓・晏・鄧颺・丁謐・畢軌・李勝・桓範・張当らをすべて誅殺し三族を夷した。
- 鄧颺、字は玄茂。鄧禹の後裔で若くして名を得たが、賄賂を好み「官を婦人と交換する鄧玄茂」との評判があった。丁謐、字は彦靖。父丁斐は太祖から「盗みをする狗だが鼠取りが巧い」と評された人物で、謐自身も才略があったが忌み嫌われる性格で、当時「台中に三狗あり」(何晏・鄧颺・丁謐を指す)と謗られた。畢軌、字は昭先。并州刺史時代に鮮卑討伐で失敗し蒋済に諫言されたが、正始中に中護軍・司隷校尉となった。李勝、字は公昭。父李休は張魯に内応を勧めた功で関内侯を得た家柄で、勝自身も夏侯玄の長史となり駱谷の役の献策者の一人であった。桓範、字は元則。名門の出で『世要論』を著すなど博識であったが蒋済との確執があり、政変時に城門を偽って突破し爽に合流したものの、その進言が用いられず族滅を招いた。
- 司馬魯芝・主簿楊綜はいずれも爽に殉じようとしたが、司馬懿は「各々その主に尽くしただけ」として赦し登用した。嘉平中、真の族孫曹熙を新昌亭侯(邑三百戸)とし真の祭祀を継がせた。
何晏
- 何晏は何進の孫。母尹氏は太祖の夫人となり、晏は宮中で育ち公主を娶った。若くして才秀で知られ老荘を好み『道徳論』など数十篇を著した。文帝は晏の驕った服飾を嫌い「仮子」と呼んで憎んだという。正始初め曹爽に取り入って散騎侍郎・侍中尚書となり、選挙を司って旧知を多く抜擢した。司馬子元(司馬師)を評して「深遠を極める者、幾微を究める者、神のごとき者」という語を残し、暗に自らを重ねていたと伝わる。爽誅殺の獄では司馬懿の命で党与を調べる側に回ったが、結局自身も収監され誅殺された。
- 爽の従弟曹文叔の妻夏侯令女は、夫の死後も再嫁を拒んで自ら耳・鼻を切り貞節を守り通した逸話が伝わる。